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慕容皝は、西の宿敵段部との死闘を優位に進め、段部の本拠地乙連へ迫る攻勢をかけるまでになりました。
この段階で、段部の勢力を殲滅させるために、華北を制した後趙に援軍を求めます。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
慕容皝、燕王を称す
段部や宇文部などの周辺勢力との戦いを優位に進めていた慕容皝に、配下の封弈たちは、燕王を称するべきだと進言します。
そこで、慕容皝は337年に燕王を称すことにしました。ここから前燕がはじまります。慕容皝は燕王に即位はしますが、あくまで東晋の帝権は認め、東晋による燕王位授与を求めます。これはのちに341年に実現します。
慕容皝は、燕王即位に際し、封弈を國相とし、韓壽を司馬にします。その他諸将も、列卿将帥とし、妻の段氏を王后とし、息子の慕容儁を太子とするなど、魏の武帝や晋の文帝の故事に習い、百官の設置などの制度を整えます。
このあとは、このブログでも慕容氏の勢力を「慕容部」ではなく「前燕」と呼ぶようにします。
※ちなみに「前燕」と燕の前に「前」がついているのは、五胡十六国時代に建国されるたくさんの燕国と区別するための、のちの時代の呼び名です。当時は、単純に「燕」と名乗っていました。
段部殲滅のため、後趙石虎に援軍を頼む
慕容皝は、この段階になっても段遼がしばしば勢力の境界を侵してくるのをよく思っていませんでした。そこで337年の11月に将軍の宋回を後趙の石虎の元に派遣し、慕容部が後趙の藩であることを認める形を取り、段部を討つために援軍を要望します。石虎はこの話を受け、段部攻撃の軍を発します。
華北の状況
慕容皝が石虎に援軍を頼んだときの中原の状況はどうだったのでしょうか?
中原では、後趙の石勒が329年に前趙を滅ぼし、華北を制覇します。
石勒は333年に死去します。慕容皝の父親の慕容廆も333年に死去しています。
後趙は、石勒死後に息子の石弘が跡を継ぎますが、334年、石虎が石弘を殺し、後趙の実権を奪います。
石虎は335年に鄴に遷都をします。
このあと、石虎による各地への攻撃がはじまりますが、段部への侵攻はその端緒となるものでした。
段部を殲滅させる
慕容皝は後趙の侵攻に呼応し、軍を率いて、段部の令支以北の諸城を攻めます。
段遼は段蘭に兵を率いさせ慕容部の侵攻を防ごうとしますが、大敗し、数千の兵が斬られ、五千余戸が奪略されてしまいます。
その間に石虎は徐無まで軍を進めます。段遼は密雲山に退却します。
石虎、矛先を慕容部へ変え、慕容皝危機に陥る
その後、石虎は令支まで進みますが、このとき慕容皝の軍が合流して来なかったことに激怒し、一転慕容部へ侵攻することにし、数十万の軍で慕容部の本拠地棘城を囲みます。
この後趙の攻撃に、慕容部の支配下に入っていた遼西遼東の諸部は多いに動揺し、36城が後趙側についてしまいます。
このような危機の中、慕容皝の家臣は、慕容皝に降伏を進めます。しかし慕容皝は「私は天下を取る人間だ。どうして降伏することなどあろうか!」と言い、徹底抗戦をします。
前燕の反撃
まず息子の慕容格に二千騎を率いさせ、明け方に出撃し、後趙軍を急襲します。
後趙軍はこの襲撃に驚き、鎧も捨てて逃げます。
慕容格は勝ちに乗じて追撃し、3万人を討ち取る大戦果をあげ、凡城を築城し守りを固め帰還しました。
慕容皝に攻められ密雲山に逃げていた段遼は、使者を石虎に送り偽りの降伏をし、前燕を攻めるための援軍を依頼します。
段部を討つために、前燕が後趙に援軍を依頼し、後趙が遠征をはじめたときと逆の状況になったようです。
石虎は将軍麻秋を派遣して段遼を迎えようとします。
しかし、これを察知した慕容格は精鋭の騎兵7000を密雲山に埋伏させ、後趙軍を撃破させます。そして、後趙の司馬陽裕や将軍鮮于亮を捕らえます。段遼をはじめとする段部の部衆も連れ帰還しました。
慕容皝は、前軍師の慕容評に軍を率いさせ、後趙の石成を遼西で破り、千戸あまりを略奪して帰還します。
時を同じくして、段部の段遼が謀反を起こしますが、慕容皝はこれを鎮圧し段遼を誅殺します。
その後、石虎は、石成に凡城を攻めさせますが落とすことができず、進路を変え広城を落とします。
前燕の遼西支配と中原進出の方向性を示す
慕容皝は、数十万の兵を擁した後趙の侵攻を跳ね返し、段部を殲滅することに成功し、段部の領地を支配することにも成功します。
これにより、前燕の支配地は西に広がり、後趙と国境を接するようになります。
この一連の流れは、この後の前燕の中原進出へのきっかけとなります。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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