石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第二部「漢の将軍として戦う」① 308年 漢の南方と東方への侵攻

石勒

こんにちは。

の天下が、八王の乱永嘉の乱などの混乱で揺れ動き崩壊していく中、石勒も河北エリアで勃発した「公師藩の乱」に参加をしてデビューすることに成功します。

「公師藩の乱」は306年9月に晋の苟晞率いる軍に鎮圧されてしまいますが、石勒と汲桑兄貴は、そのあと再び決起し「汲桑の乱」を起こします。

この乱で石勒は暴れまわり、因縁のクソ馬・司馬騰を倒し河北エリアの中心都市・を陥落させ、そのあと、晋の名将・苟晞とがっぷり四つの名勝負を繰り広げ、名を挙げていきます。

しかし、河北エリアを混乱に落とし入れた「汲桑の乱」も最後は苟晞率いる晋の正規軍によって鎮圧されてしまい、その勢力はバラバラに分解してしまいます。

石勒はそのあと、劉淵が建国した漢に帰順し、その才覚を認められ一軍を率いる将軍となることに成功します。

ここから、石勒の漢の将軍としての活動がはじまります。

307年汲桑の乱関連図

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漢の勢力

さて、石勒の将軍としての動きを見る前に、石勒が所属したという国の現状の勢力を見てみます。

劉淵

漢は匈奴の劉淵が建国した国です。

劉淵は并州あたりで五部に分かれていた南匈奴のうち、左部の族長の家の出身で、人質として若い頃を晋の首都・洛陽で暮らしています。

元々文武両道の優れた人物で相当な教養があった人だったそうですが、洛陽での生活でさらに中国文化の教養を高めたそうです。

晋帝からも信頼されていて、地方の反乱への派遣軍の将軍に推薦されたりしましたが、反面、匈奴であることとその才能の凄さから、相当晋の延臣たちから警戒をされてもいました。(派遣軍の将軍の話も警戒されて立ち消えになった)

そのうち、父親で部族長の劉豹が死去したので、劉淵はあとを継ぎ、五部匈奴の左部師に任命されます。

そのあと、五部大都督となり五部匈奴全体に影響力がある立場になります。

劉淵、自立して漢を建国

八王の乱が起こっているときは、劉淵鄴の司馬穎の元にいました。

司馬穎が王浚と司馬騰から攻撃されると、劉淵は司馬穎に、五部匈奴を説いて味方をさせるので部族の元に向かわせてほしいと頼みます。

劉淵は并州の左国城に戻り、元々、独立の機運が高まっていた匈奴の部衆を集め離石を都にして自立をしました。

劉淵はそのあとすぐ左国城に遷都し、漢王を自称します。

これが漢(のちの前趙)の建国です。

このあと、漢は攻めてきた司馬騰の軍と戦いながら并州南部河東エリアに勢力を伸ばして行きます。

漢の戦略

漢の戦略としては、并州南部を拠点に四方へ兵を進め、306年に晋陽(今の太原)に入った晋の劉琨を討ち、その後河東を手に入れ南に進出し、長安を落として都として、関中で増兵したのち、晋の都・洛陽を攻撃するというものだったようです。

関中に入る方向は違いますが、関中獲得→東方の中原へ打って出るという、漢の劉邦が強大な楚の項羽を破ったときのことをモデルとしたようです。

ただこの時点では、まだ晋の強さは相当なもので、劉淵もなかなか勢力を伸ばしていけない状態でした。(食糧不足なども重なり、漢は何度か遷都する羽目にもなる。けっこうジリ貧。さらに言えば、劉琨が晋陽(太原)に陣取ったせいで、南の晋主力と挟み撃ちの状態になり危険な状態(*´Д`))

306年末の勢力地図

しかし、307年に石勒劉霊などの脳筋たちが順次加わって来ることにより、武力的な駒がそろいはじめたようで、ここから漢は侵攻の手を広げていきます。(もう一人の脳筋・王弥も308年になってから合流して来る)

太行侵攻と趙魏侵攻の二面作戦

308年1月に、劉淵は晋に対して本格的な侵攻作戦を始めます。

撫軍將軍・劉聡など十将に南方方面の太行山脈エリアに派遣し、石勒など十将を東へ向かわせ趙魏エリア(鄴や邯鄲がある河北エリア)の攻略に向かわせます。

※このあたりの漢の侵攻の記述(とくに時間の流れ)は、「晋書・石勒載記」と「資治通鑑」で異なっており、晋書では、太行山脈の西の上党郡・壺關を陥落させてから、太行山脈を超えて石勒の河北エリア侵攻が始まるという流れになっており、はっきり言ってこっちのほうがまとまりのよい侵攻の流れになっているのですが、このブログでは資治通鑑での流れに沿って書いていきます。なぜなら資治通鑑のほうが、月日の流れがよくわかるからさ

石勒の常山攻撃

さて、東の河北エリアに進出して行った石勒ですが、308年2月に常山を攻撃します。

この攻撃は晋の将軍・王浚に返り討ちにされます。石勒はこの王浚にこの後も煮え湯を飲ませられます。ライバルというよりは仇敵的な存在です。

劉聡の河東攻撃と王弥の帰順

石勒の東方方面軍が出だしで躓いているときに、劉聡の南方方面軍も5月に晋(前涼から出向中)の北宮純河東で敗れるなど、なかなか一気呵成に勢力を広げていけません。

ただこの直前に、劉淵の昔からのマブダチで、河南エリアで大暴れして晋の首都・洛陽に攻撃を仕掛けた王弥が、晋軍に破れたのち漢に帰順して来るという、劉淵にとっては嬉しい出来事も起こりました。(ちなみに洛陽で王弥を破り、首都陥落の危機を救ったのも前述の北宮純。出向なのに、最高の結果を残しました。)

ともあれ、3人めの脳筋・王弥が帰順して来ることによって、漢の軍事力がアップしたのは間違いないでしょう。漢は引き続き侵攻作戦を進めます。

平陽の攻略

308年7月に劉淵は河東エリアの中心都市・平陽(今の臨汾市)を陥落させます。そして本拠地を蒲子に遷します。

石勒、鄴を落とす

石勒も常山攻めに失敗したあと、南のほうに矛先を変え、308年9月に王弥と一緒にを攻めて見事陥落させることに成功します。

この漢勢力による平陽の重要都市の奪取は晋にとってもショッキングな出来事だったのでしょう。

晋は、黄河の南の兗州の白馬と東燕に将軍を派遣し守りを固め、また、河東エリアの黄河のすぐ北の大陽にも将軍を派遣し、蒲子の劉淵にも備えます。

劉淵、皇帝に即位する

そして、308年10月に劉淵は皇帝に即位します。

天に二日無し。劉淵が皇帝に即位したということは、もはや晋へ全面戦争の喧嘩を売ったことに他なりません。

劉琨、壺關を攻撃する

劉淵が皇帝に即位したあと、漢勢力の北の晋陽に構えていた劉琨上党太守・劉惇に命令を下し、鮮卑兵を率いさせ上党郡にある壺關を攻めさせます。漢の将軍は破れ逃げていきました。

石勒、魏郡、汲郡、頓丘を攻略

上党郡では晋に食い込まれましたが、石勒率いる東方方面軍は石勒劉霊が11月に3万を率いて魏郡、汲郡、頓丘を攻略し、そこで民衆から強そうなやつ5万を選抜して軍に加えます。

308年が終わるまでの漢は、河東と河北では黄河流域あたりまでまで南に勢力を伸ばすことに成功しました。

ただ、晋陽に劉琨が陣取っていることで南北に晋勢力に挟まれていることには変わりなく、厳しい戦況は変わりません。また劉琨の策動で壺關を晋に取られたので、かなり領土にくさびを打ち込まれているような状態になっています。

このあと309年も漢と晋の攻防は続いていきます。

308年頃の勢力地図

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』


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魏晋南北朝 (講談社学術文庫)


 

 

 

 

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