中国史上最大級の戦乱の時代、五胡十六国時代。その各国の攻防を描く 成漢②

中国史

李雄の巴蜀制覇

李特戦死後、李流を経て、李雄の息子の李雄が勢力を引き継ぎます。

李雄は羅尚を攻めて、成都を制圧し、304年10月に成都王を称します。その後306年6月には皇帝に即位し、国号を「大成」とします。この動きに平行して、李雄は武将の李國と李雲に2万の兵を率いさせて漢中を攻めさせ南鄭を陥し制圧します。そして漢中の人民を蜀へ移し、その勢力を拡大していきます。

一方、成都を追われた羅尚は、四川省の東部、巴郡(重慶市)に拠点を置き、李雄の勢力と激しく対立していきます。梓潼に配されていた李離が部下の裏切りにより殺され、梓潼の街は羅尚の勢力に帰してしまいます。そして羅尚は向奮を安漢の宜福に駐屯させ李雄に圧力をかけます。李雄は軍を率いて向奮を攻めますが、勝利することができませんでした。さらに巴西に鎮していた李國も部下に殺され、巴西も羅尚に降ってしまいます。李雄はすぐに軍を返し、武将の張賓に梓潼を襲撃させ陥落させます。このような攻防が行われてきましたが、310年7月に羅尚が死に、それにより羅尚の勢力下の巴郡は混乱し、その混乱に乗じて李雄の勢力は攻め立て、ついに李雄が巴蜀全体を制圧を完了しました。

李雄のもと成漢の最盛期へ

成漢は、建国の過程で、関中から漢中、蜀への移動の中で、多くの漢族を勢力に引き込み、政権の中枢に異民族だけでなく多くの漢族も存在していました。

そして巴蜀は、戦乱に明け暮れ、大混乱の中原から逃げてくる人、流民たちの受け入れ先としても機能していました。李雄も流れてくる人たちを受けいる、才能あるものを用いていきます。

また、もとからの勢力、社会の掌握にも力を入れ、後漢末から漢中巴蜀エリアに広まった五斗米道の導師を政権に迎えるなどしています。

五斗米道は三國志のときに漢中の張魯が有名ですが、100年以上たった、五胡十六国時代にも、この地に根付いたままだったのですね。

李雄の在位期間は、政権も安定し、中原に比べると比較的巴蜀エリアは社会も安定していたようです。

李雄の死と後継者争い

334年4月に李雄が亡くなると、後継者争いが起きます。このあたりは、他の五胡十六国時代の国と変わりません。成漢の場合は、これに加えて、官僚たちの自立確保派と晋朝帰順派との間の対立も重なって起こり、国力が低下していきます。

李雄のあとは、李雄の兄の子の李班が継ぎますが、8月に李雄の第四子の李期、338年4月に李寿と短期間で皇帝が変わっていきます。

李寿の即位

李寿は李特の弟の子供で、即位したあと、李雄の子を皆殺しにします。

そして、これまでは「大成」と名乗っていた国号を「漢」と変更します。「大成」と「漢」をあわせて、この国を「成漢」と呼びます。

李寿は、東晋に帰属しようとする勢力によってかつがれましたが、結局は東晋に帰属せずに自立の道を歩みます。中原の覇者となっていた後趙とも連携しようとし、急速な国力増強の方針を取っていきますが、343年8月に病死してしまいます。

成漢の滅亡

李寿の死亡後、その長子の李勢が即位します。

しかし、側近の排除、内乱、獠(荊州方面から四川に流れてきた少数民族)の反乱で、国力がどんどん弱まっていきます。

当時、中国南部の東を支配していた東晋では、将軍桓温が台頭しており、彼の卓抜した将才に率いられた東晋軍が巴蜀に攻め込んできます。

この攻撃により、成漢は347年3月あえなく滅亡しました。

成漢は、同じ時代の中原と比べれば、比較的安定した社会を巴蜀にもたらし、百官を置き、郡県制をしくなどの漢族の支配体制を採用するなどしましたが、結局は反乱集団、流民集団の正確を消し去ることができず、政権内のぶつかりあいにより、国力を弱めていきました。

この、成漢滅亡時は、華北に後趙、江南に東晋、巴蜀に成漢と、三国時代と同じような勢力関係になっていました。東晋は成漢を滅ぼし、中国の南半分を手に入れたにもかかわらず、そのまま一気に中華統一とはいきませんでした。そのあたりの国力の関係なども掘り下げていくとおもしろいと思います。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 


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