中国史上最大級の戦乱の時代、五胡十六国時代。その各国の攻防を描く 成漢①

中国史
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五胡十六国時代が幕を明けたころ、巴蜀の地に成漢という国が建国されます。

李雄という人物が成都王を称した304年10月から347年まで続いた王朝です。

この李氏の民族は諸説ありますが、巴族(氐族の一種)です。

中原では、永嘉の乱で西晋が滅び、前趙・後趙が興亡を繰り広げ、後趙が華北を制覇する時代に当たります。また、江南では、西晋の滅亡を受けて司馬睿が家臣の王導とともに東晋を建国し、幾多の反乱や政争の末に、実力者桓温が台頭してくる時期です。

この時代、中原、江南という中華の二大中心地とは異なる巴蜀エリア(今の四川省)では、どのような興亡が繰り広げられたのかを書きたいと思います。

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成漢建国前史

李氏の集団は、李雄の父の李特の時代から四川周辺で一勢力を築いていました。李特の祖父の李虎のときに魏の曹操によって渭水上流の略陽(甘粛省)に居住させられていました。しかし、西晋の時代になってからの296年に氐族の斉万年の乱によって関中が混乱し、さらに連年の飢饉で多くの流民が発生すると、李特はその集団を率いて297年に漢中に移動しました。諸葛亮が北伐のときに拠点とした漢中ですね。その後、西晋政府に、巴蜀に移動居住することを求めましたが、却下されてしまいます。そこで李特は政治力を発揮し、西晋政府から流民対策のために派遣されてきた、李苾という人物を賄賂によって丸め込み、西晋政府に流民の巴蜀への移動を建議させ、許可がおります。そうして、李特の集団は合法的に巴蜀へ移住することができました。そのときの集団の規模は10万人を超えていたと言います。この時点で一大勢力を築いていました。

李特の集団は、益州刺史に赴任した趙廞という人物が300年12月に西晋に対して反乱を起こすとこれに従い、趙廞の後任で益州刺史に赴任してきた耿滕を殺害するのに協力します。

しかし、趙廞はこのあと李特の弟の李庠の能力が高いことに、疑いをもち、彼を殺してしまいます。

これにより、李特の集団は趙廞に離反し、301年1月には趙廞を殺害します。

成漢の成立

西晋政府はあらたに益州刺史として羅尚を派遣します。そして李特は綿竹に入り、羅尚に服属をまずはします。

しかし羅尚が流民の対策に失敗するなどをし、多くの流民が李特に従属する状況が生まれてきます。さらに流民だけでなく巴蜀に居住していた漢族からも李特に頼るものが出始めてきます。これにより、李特は302年5月に益州牧・大将軍を自称するようになります。さらに建初という年号も使いはじめます。この時点で成漢が成立したとの説もあります。

ただし、この李特の動きは西晋の益州刺史羅尚との対決を意味することもあり、両者は全面衝突し、益州を舞台に激しく争いはじめます。

その戦いのさなか、303年3月に、荊州刺史宋岱が援軍にかけつけ、李特は戦死します。

李雄の即位

李特の勢力は弟の李流に引き継がれましたが、李流もすぐに病死してしまったため、李特の子の李雄が勢力を引き継ぎます。

そして李雄は303年11月に羅尚を攻めて、成都を占領します。そして304年10月には成都王を称します。

こうして、成漢が成立し、李雄の元、勢力を拡大していきます。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 


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