中国史上最大級の戦乱の時代、五胡十六国時代。その各国の攻防を描く 前趙(漢)⑤ 前趙の滅亡

中国史
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劉曜の即位と石勒の独立

劉聡が死んだあとの政変と内乱をおさめた劉曜が即位し、319年4月長安に遷都し、国号も今まで名乗っていた「漢」から「趙」に変更します。このあと11月に東方で石勒が起こす「趙」の国と区別して、この「趙」を「前趙」と呼びます。

石勒の独立により、前趙の領土は東西に2分され、西は前趙、東は後趙と東西対立する構図になります。

千里の駒、劉曜

劉曜は劉淵の族子で幼いころから劉淵に養われました。その劉淵が劉曜を「我が家の千里の駒」と評し、その才能を大変買っていました。

九尺三寸の長身、目は赤い光をもち、眉は白い、読書をよくし、とくに兵書を好み、ほぼ暗記できたと言います。

このように、容貌的にも目立ち、文武両道の人物でした。

劉曜は即位すると、

①前述、国名を「趙」に変更し、冒頓単于を天に配するなどの匈奴民族主義を強化した。
②太学、小学を建て、国子祭酒・崇文祭酒を置き、漢文化も尊重した。
③国際的に、後趙への対策として、北方と西方に勢力を伸ばす方針をとった。320年には関中の氐族・羌族を支配。

このように、政治的には安定した統治を行っていた劉曜ですが、プライベートが目をおおいたくなるほど乱れてきます。

酒におぼれて、諫言した家臣を切ったり、博打にはまるなどの生活を送っていきます。

前趙の一族は、権力の座につくと、酒によりプライベートが大いに乱れる血が流れているのではないかと思うくらいです。

後趙の拡大と前趙の衰退

322年頃になってくると、後趙の石勒が勢力をのばし、河北、河南、山東、山西、遼西のほとんどを制圧して、前趙との力関係が逆転してきます。

324年になると、河南進出を狙った前趙とそれを迎え撃つ後趙の戦いが激化してきます。

328年劉曜が洛陽奪還を狙って大軍で攻め込んできて、洛陽周辺で両国の全面衝突になります。双方10万規模の軍隊を繰り出し、大軍同士の大会戦が続きます。

前趙の滅亡

前趙はこの洛陽争奪戦に劉曜自ら出陣をしており、洛陽を包囲します。石勒もこれを迎え撃ち激闘が続きます。しかし、石勒の従子の石勒がその武力を発揮し、戦場でも常に酒を摂取しべろべろに酔っ払った劉曜を捕らえました。これにより洛陽攻防戦は後趙の勝利に終わり、前趙の太子劉煕は長安から西に逃亡します。石虎は劉煕を追って西に進軍し、329年9月に上邽で劉煕を殺害します。

これによって前趙は滅亡するのです。

五胡十六国時代の先駆けとして建国し、永嘉の乱で西晋を滅ぼし、一時は華北に強力な国家を建国した前趙ですが、前君主死亡後の内乱や、新君主の即位後の乱れなどで国力をあっという間に落とし新興の後趙にあっけなく滅ばされてしまいました。

今後も五胡十六国時代の各国のことを書いていきたいと思いますが、ほとんどの国が前趙と同じような理由で同じような流れで滅びていきます。これは異民族国家の宿命ではないかと思うくらいです。

五胡十六国時代のおおまかな流れはこちら

五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら

【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 


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