毛利元就の防長侵攻④ ~防長制圧完了~

歴史

佐波郡攻略

富田若山城を攻略することによって、元就は防長の玖珂郡と都濃郡の2つの郡を平定しました。(玖珂郡と都濃郡の間にある熊毛郡もこの間に平定されていると思われる)

これにより防長2国の3分の1を切り取った勘定になります。元就の次の目標は山口の町がある吉敷郡と隣あった佐波郡です。佐波郡の勢力としましては、右田ヶ岳城の右田隆量と、寺社勢力・松崎天満宮の円楽坊でした。すでに大内方の抵抗力はほぼ無くなってきていましたので、元就は上記、右田ヶ岳城と松崎天満宮に降伏の使者を送ります。そしてこの2勢力はすぐに毛利に従属しました。右田隆量は毛利の先兵を買って出て、氷上という地を占領する働きを見せます。

この佐波郡攻略は山口の高嶺城に籠城する大内晴英と内藤隆世を追い詰めます。

山口侵攻

弘治3年(1557年)3月12日元就は富田若山城から山口へ向けて出陣します。同時に石見の吉見正頼も阿武郡方面から山口に迫ります。

この2方面からの進撃により、高嶺城では兵が次々と逃亡し戦える状況ではなくなってきました。そして内藤隆世の進言により、大内晴英は山口の町を棄て、勝山城(山口県下関)に逃げ込みました。

防府の松崎天満宮に陣をかまえた元就は、福原貞俊、桂元澄、志道元保たちの毛利家譜代家臣を先発として山口に派兵します。大内方では、長山入道や小幡某らがわずかな手勢で築山館を守っていましたが、毛利軍によって攻略されてしまいました。こうして西の京山口の町は毛利軍の手に落ちたのでした。

大内氏滅亡、防長制圧完了

防府の陣で、大内晴英と内藤隆世の逃亡を知った元就は、乃美宗勝・村上武吉らに指示を出し。上関~下関ラインの海上封鎖を行わせ、晴英の豊後への逃走を阻止します。こうして晴英の逃げ場所をなくした上で、福原貞俊を大将とした軍を勝山城へ送りました。

こうして3月中旬から勝山城の攻城戦が始まり、4月初旬には本丸を残して城は陥落してしまいます。

この段階で、城へ降伏の矢文を放ちます。内容は、「内藤隆世は切腹してもらうが、大内晴英の命は助ける」というものでした。4月2日、内藤隆世は大内晴英を無理やり場外の長福院へ脱出させて、自分は切腹して果てました。「命は助ける」という触れ込みであったにもかかわらず、4月2日に福原貞俊の軍勢は長福院を囲みます。晴英は毛利に騙されたと激怒しますが、どうにもできず切腹しました。元就の謀略の凄みが出たエピソードだったでしょう。

こうして、大内氏を滅ぼし防長制圧を達成した元就は、安芸・備後・周防・長門の4ヵ国を領す有数の戦国大名になりました。中国地方ではかつて足元にも及ばなかった尼子氏と並ぶどころか凌駕する勢力に成長したのでした。

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