第1次~第5次の川中島の戦いの流れを書いてみる⑦ 第四次川中島の戦い 合戦本戦

歴史

弘治三年(1557年)の第三次川中島の戦いが終わって、第四次川中島の戦いまでのあいだ、武田信玄、上杉謙信(当時は長尾景虎【途中、政虎に改名】)とそれぞれ、様々な動きを見せます。

上杉謙信→上洛
関東出兵

武田信玄→上杉謙信の上洛と関東出兵のスキをついて北信の制圧を進める
川中島エリアの拠点として海津城建設
北条の要請を受けての北信や上野出兵(一時、越後へも侵入)

武田信玄の動きは、関東での上杉謙信の動きをことごとく牽制をし、思うとおりに関東攻略が進みませんでした。これにより上杉謙信は越後へ帰国せざるを得ず、怒り心頭で信濃へ出兵します。


信虎・信玄・勝頼 武田三代


戦国大名と国衆 (角川選書)

武田信玄、上杉謙信、川中島へ

永禄四年(1561年)8月14日、上杉謙信は13,000人の兵を引き連れ出陣し川中島へ向かいます。8月15日に善光寺に着陣し、翌16日に犀川を渡り、妻女山へ陣をおきます。

海津城代の高坂昌信は、すぐに甲府の武田信玄のもとに上杉謙信の来襲を伝えます。そして8月24日に武田信玄は川中島へ入り、8月29日は海津城に入りました。

第四次川中島の戦い、開戦

第四次川中島の戦いは、いろんなところで書かれているので、ここでは時系列で動きを書きます。

武田軍別働隊密かに出発

9月9日、武田軍は軍議を開きます。ここで有名な「啄木鳥戦法」が献策され、信玄はこれを採用します。これを献策したのが、山本勘助であったとか馬場信春であったとか諸説あります。
作戦は、武田軍を二手に分け、一方は妻女山の背後に回り込んで、上杉謙信軍を夜襲し、妻女山を追い落とされた上杉軍を川中島八幡原に展開した武田信玄本隊が待受挟み撃ちにするというものでした。
そして、暗い内に別働隊は出発します。

上杉謙信は、これを見破り、夜のうちに全軍山を下り、雨宮の渡しで渡河して八幡原の武田軍を狙います。

上杉謙信が海津城から上がる炊煙の数がいつもより多いことで武田軍の動きを見抜いたというのは有名な話ですが、いつ動くかもわからない敵の動きを見破りそれに対処し味方の有利な状態を作り出す勘というのは、やはり上杉謙信に天から与えられた軍才というものがあったからでしょう。「軍神」と呼ばれるようになるのも頷けます。

9月10日早朝、武田軍の別働隊は妻女山の上杉軍本陣を奇襲しますが、妻女山はすでに奇襲部隊への足止めの隊以外はいなくなっていました。

上杉軍、武田軍本隊を急襲

10日朝に、早朝からの濃霧が晴れてくると同時に、上杉軍は八幡原の武田軍に攻めかかります。

元々、武田軍は20000人、上杉軍13000人だったものが、別働隊に、12000の兵を割いたので、武田軍本軍は8000人になっております。そこへ上杉軍のほぼ全軍が襲いかかりました。数においても上杉軍が有利になっています。

武田軍は鶴翼の陣を敷き、別働隊の到着まで耐える戦術に出ます。

上杉軍は逆に武田の別働隊が戻ってくるまでにケリをつけたいため車懸りの陣で猛攻をかけます。

この上杉軍の猛攻に武田の陣は次々と崩され、信玄の弟の武田典厩信繁、両角虎光が討たれ、旗本衆まで犠牲が出ます。初鹿野源五郎、安間三右衛門、三枝新十郎や、武田一族の油川彦五郎も討ち死にし、嫡子武田義信も負傷します。

新田次郎「武田信玄」やそれを原作にした大河ドラマ「武田信玄」では、命令違反をした武田義信が守りを固めず、上杉軍の誘いにのり攻め込んだために堅陣が崩れ、武田信繁などが討ち死にをし、武田軍全軍が危機になるような描き方がされていますが、そうでなくても上杉軍の攻撃により陣がガタガタにされかかっていたのでしょう。

このとき上杉謙信が単騎で武田信玄の本陣に切り込み信玄と謙信が一騎打ちをしたという伝説が残っています。ホントかどうかはわかりませんが、戦国好きにはロマンがある話です。

武田軍別働隊到着

10日午前10時頃、武田軍の別働隊は妻女山と千曲川の上杉の防衛ラインを突破し、上杉軍に側面から襲いかかります。ここにようやく挟み撃ちの形になり、形勢が逆転します。

不利となった上杉軍は善光寺方面に撤退をし、5回のうち最大の規模の激戦となった第四次川中島の戦いは終了します。この戦いで、武田軍は四千余人の死者、上杉軍は三千余人の死者を出したと言われています。両軍で八千近くの死傷者を出す。戦国時代でも稀に見る大激戦でした。

第四次川中島の戦いを終えて

この合戦で両軍多くの死傷者を出してしまいます。数だけでは武田軍の犠牲が少し多いですが、両軍痛み分けという合戦結果でした。しかしこのあと武田軍は北信の制圧をほぼ完了させていますので、長い目で見ると武田信玄が目的を達成したと言ってもよいでしょう。

このあとの両軍の戦いは、主に関東を舞台とした争いになりますが、第五次川中島の戦いが最後にあります。

【参考文献】
笹本正治『武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房、2005年11月)
平山優『武田信玄』 (吉川弘文館、2006年12月)


武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る (ミネルヴァ日本評伝選)


武田信玄 (歴史文化ライブラリー)

 

 

 

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