毛利元就の防長侵攻③ ~都濃郡平定~

歴史

都濃郡平定戦

玖珂郡を平定した元就は都濃郡の平定に向け進撃します。

元就は玖珂郡での一揆勢力の抵抗に懲りたためか、都濃郡攻略にあたっては、一村一村味方につけながら進撃することを指示するなど慎重に動きます。

都濃郡の守備拠点は、須々万沼城と富田若山城の2城です。

沼城攻防戦

沼城は名前からも分かるとおり、周囲三方を沼で囲まれた低丘陵に建てられた城で難攻不落の城でした。

弘治2年(1556年)4月初めに小早川隆景率いる軍が沼城を攻撃します。しかし、城将山崎興盛以下、城兵が激しく抵抗し、前述の足場が悪い状態などによりなかなか接近できず撃退されます。

4月20日に今度は毛利隆元率いる5千の本隊が攻め込みますが、これも撃退され追撃により危機におちいります。隆元は9月にも攻撃しますがこれも失敗してしまいます。

沼城には各地から毛利に抵抗する土豪たちや山口から江良賢宣などが援軍として駆けつけ、7000の兵が籠城するようになりました。これによりこの須々万沼城の攻防が毛利対大内の天王山とも言える状況になっていきます。

あけて弘治3年(1557年)2月、元就は隆元とともに1万の兵を率いて、沼城攻略に乗り出します。

元就は湿地帯の足元の対策として、兵に編竹と薦を1枚ずつ持たせました。そしていざ城へ攻め込むときに沼城を囲む湿地帯に編竹を投げ入れ、薦も投げて、それにより足場の状態をよくし、城に迫りました。

2月29日から総攻撃をはじめ、足元対策も効果を発揮し、沼城に攻め込みます。これにより3月2日にとうとう沼城は陥落しました。江良賢宣は城を出て降伏し、山崎興盛は自刃しました。元就は江良は許しましたが、最後まで抵抗した城兵などは、男女問わずすべて討ち果たしました。

富田若山城へ進行

沼城を落とした、毛利軍は3月8日には富田和歌山城に進行します。

富田若山城は陶氏の代々の居城であり、強力に抵抗しそうでしたが、あっさりと降伏してしまいます。

富田若山城は、陶晴賢の子、長房が城主でしたが、晴賢に殺された杉重矩の子ども重輔に父の仇として殺されてしまいます。

これにより城主不在になった富田和歌山城は毛利軍に抵抗する気力もなくなり毛利軍が近づくとすぐに降伏してしまいました。

富田若山城の降伏により、元就は都濃郡も平定しました。

次は山口とはすぐの距離の佐波郡の平定です。

しかし、この段階になると大内方には毛利軍に抵抗する力はほぼ残っていませんでした。

 

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