毛利元就の防長侵攻① ~侵攻前の下準備~

歴史

毛利元就は、私の好きな戦国大名ベスト5に入る人物です。

山口県出身の私にとっては、地元の英雄でもあります。(毛利元就が広島代表か山口代表かは歴史好きな両県出身者のあいだで議論があります(笑)。出身は広島の吉田郡山で、毛利家藩として落ち着いた場所が山口なので。)

その毛利元就が人生における最大のピンチかつ乾坤一擲の勝負でもあった、厳島の戦いで陶晴賢に勝利を治めることにより、戦国大名毛利家の躍進がはじまります。その躍進の第一歩である防長侵攻について書きたいと思います。

防長とは

防長とは旧国名の「周防」と「長門」の2国のことです。「防」と「長」を取って「防長」ですね。2国で今の山口県全体にあたります。この、2国は元々、守護大名大内家の領地でした。室町時代に繁栄を誇った大内家も大内義隆が文化・芸能にのめり込みすぎて、16世紀半ばにはガタガタしてきます。(皮肉なことに、その大内義隆の方針により、山口の町は「西の京」と呼ばれるほどの文化的に繁栄します。)

そんな大内家をみて、有力家臣の陶晴賢がクーデターを起こし、それが一つのきっかけになり、厳島の戦いが起こりますが、厳島の戦い自体は別の機会に書きたいと思います。

厳島の戦い後の動き

厳島の戦いに弘治元年(1555年)10月1日に勝利した元就は、間髪入れずに10月5日には防長侵攻をスタートします。普通、防長という国を征服する戦争を起こすときはじっくり準備してからと思いそうですが、元就の判断は違いました。大内家は陶晴賢のクーデターとそれに続く厳島の戦いで有力家臣の多くを失っており、力をかなり落としていました。元就は、そのような大内家の内情を把握していたのでしょう。かつ、厳島の戦いで実質的な支配者である陶晴賢までいなくなり大内家が混乱している今だからこそ、防長侵攻のチャンスだと思ったに違いありません。

防長侵攻前の根回し

ただ、元就は防長に攻め込むにあたって外堀を埋めることも忘れていません。大内家の当主大内晴英は豊後の大友宗麟の弟で、大内家に養子として入り、陶晴賢のクーデターによって当主に収まっていた人物です。この晴英が実家の大友家を頼ると侵攻が面倒なことになるのは間違いありません。それを防ぐために、元就は重臣の小寺元武を豊後に派遣し、防長侵攻の了解を求めています。大友宗麟が、逆に北九州平定の了解を求めていることから交渉は成立したのではないかと思われます。あわれ晴英は実家の大友家からも見捨てられたのです。

しかし、元就が謀(はかりごと)の凄さはこれだけではありません。万が一のことを考えて元就は、大友との密約と同時進行で肥前の龍造寺隆信とも結び大友対策を行っているのです。このように一気呵成の戦術のみでなく、先の先までを読み万全の体制を整えることも同時にできることが元就の凄さだったのではないかと思います。

次からは具体的な防長侵攻の足取りを書いていこうと思います。

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