現代の洛陽の街と隋唐洛陽城①

中国の城・町

隋唐洛陽城

今の洛陽の街の中心街は、隋唐洛陽城の跡にあります。

現代の街中になるので、なかなか史跡らしい史跡はないのですが、歩いてみると、当時の洛陽の感じが多少なりともわかったような気になりました。

洛陽を観光したとき、泊まったホテルは、洛河という洛陽の街や洛陽盆地を横断する大きな河の南側にありました。

洛河と「洛陽」という名前

洛河は洛陽という名前の元になった河でもあります。洛陽の「陽」は山の南、河の北という意味があります。洛陽はその名の通り、洛河の北にあったので、洛陽と名付けられました。

ちなみにキングダムに出てくる、秦の都、咸陽は、渭水という河の北にあり、九嵕山(きゅうそうざん)という山の南にあるため、咸(みな)の陽という意味で咸陽と名付けられてます。

ただ、洛河の北にあるというのは、後漢、魏晋南北朝時代の洛陽のことで、隋唐洛陽城は、洛河を街の真ん中を横断するように建設されています。

洛河で南北に分かれる

それで、泊まったホテルは、洛河の南にあるので、隋唐洛陽城の南部分のエリアになります。洛河を渡って見ると、橋の上を1キロ近く歩いたので、当時も立派な橋つながれていたんだろうなと思いました。ただ、河の氾濫とかで、橋が流されたりすると城市の北部分と南部分が分断されてしまったのかなと思いました。

 

隋唐洛陽城は、洛河で南北に二分されていますが、皇帝が居住する宮殿などがあるのは、洛河の北部分になります。

※唐王朝は、長安を首都としていましたが、洛陽を副都として、皇帝は食糧問題などの理由で、長安と洛陽のどちらにも居住していました。則天武后は、長安でライバルの皇后などを蹴落として即位していますので、たたりが怖いなどの理由で、ほぼ洛陽に住んでいました。

洛河を渡って、川沿いからかつて洛陽の宮殿があった部分に移動してみると、坂を昇っていくことになります。遠くから見た感じでは、わかりませんが、宮殿などがあった地区は、周囲より高い高台だったようです。そのあたりの地形も考えつつ街を建設しているようです。

今の洛陽の街の中心部もこのあたりになり、公園や博物館などがあります。

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