五胡十六国時代のきっかけとなった八王の乱について④ ~乱の終息とその影響~

中国史

西晋王朝を死に体にした八王の乱ですが、乱も終盤戦に入ってきます。

まず、八王の図です。

八王一覧

①楚王・瑋(恵帝の弟)
②汝南王・亮(司馬懿の子ども、司馬師・司馬昭の弟)
③趙王・倫(司馬懿の子ども、司馬師・司馬昭の弟)
④成都王・穎【えい】(恵帝の弟)
⑤斉王・冏【けい】(司馬昭の孫、恵帝の従兄弟)
⑥河間王・顒【ぐう】(司馬懿の甥の息子)
⑦長沙王・乂【がい】(恵帝の弟)
⑧東海王・越【えつ】(司馬懿の弟の息子)

※「◯◯王」と地名がついているが、鎭している場所はその地名の場所ではない。

殺し合う司馬一族

⑤斉王・冏【けい】を殺し権力をもった⑦長沙王・乂【がい】ですが、それをおもしろく思わない王がいました。
⑦長沙王・乂【がい】は八王の中では唯一、恵帝をないがしろにせず、権力を独占せずにいたので、部下や民衆からも慕われていたようです。八王の他の王は国を衰えさせた悪人されていますが、この⑦長沙王・乂【がい】だけは国家の忠臣として称賛されていたようです。

さて、

④成都王・穎【えい】⑥河間王・顒【ぐう】の二人は、⑦長沙王・乂【がい】の成功をねたみ、共同して⑦長沙王・乂【がい】を討ちました。このとき、⑧東海王・越【えつ】の助力を得た上で⑦長沙王・乂【がい】を討ちました。こうして、8人の王がすべて揃いました。ただしこの時点ですでにほとんど死亡しています。

⑦長沙王・乂【がい】を討ち果たした④成都王・穎【えい】⑥河間王・顒【ぐう】ですが、今度はこの二人が仲違いをはじめ、お互い攻め合います。

そして、306年、④成都王・穎【えい】がまず殺され、⑥河間王・顒【ぐう】も続いて殺されます。その同じ年に恵帝も毒にあたり死にます。(司馬越が恵帝に毒を盛った説もあり。)

最後に⑧東海王・越【えつ】が残り、八王の乱は終息します。

乱の結果

最後に残った⑧東海王・越【えつ】ですが、これも失政を繰り返します。

この八王の乱で西晋王朝が揺れているあいだ、中国本土に入ってきていた周辺民族が力をつけ自らのアイデンティティに目覚めてきます。

④成都王・穎【えい】が八王の乱の最中、自分の軍を強化するために、自らの根拠地、鄴に近いエリアにいた匈奴の集団を傭兵で使うために迎え入れます。しかしその匈奴のトップ劉淵は勧誘にのり兵を集めていると思わせ、その兵力で自立して漢王を称します。

⑧東海王・越【えつ】は、その後勢力を拡大していく「漢」に対して有効な手を打てないままでした。

そして匈奴が力をつけて西晋を打倒する立場になります。このあと、永嘉の乱→西晋の滅亡へと流れていきます。(永嘉の乱は劉淵が自立した304年から始まるので、実質的には八王の乱の最中から同時進行で進んでいる)

まとめると八王の乱により、

●西晋王朝は皇族同士の内ゲバで壊滅的な打撃を被る
●傭兵として雇われた異民族が力をつけ、自立の意識も持つ
●八王の乱で最後まで生き残った司馬越もろくな政治をしない
●まず自立した匈奴の漢がみるみるうちに強盛になる。
●地方の異民族も自立の動きをみせてくる

という状況になります。

これにより多くの国や民族が跋扈していく五胡十六国時代がはじまるのです。

【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 


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