毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程①

歴史

毛利元就と言えば、安芸の国(今の広島県の西半分)から出発し中国地方のほぼ全体を制圧した戦国大名として知られていますが、その過程のはじまりは安芸・備後(2国あわせて今の広島県全体)を支配下に置いたことからはじまります。のちの中国地方における毛利氏の覇権の基礎となった、毛利元就の安芸・備後への支配力を扶植する過程を見ていきたいと思います。

毛利元就が生まれるまでの毛利氏

毛利氏の先祖は、源頼朝の参謀の役割を担った大江広元になります。大江広元は鎌倉幕府創設時の功績により、日本全国のいろいろな場所に領地を賜ります。そのうちの一つに相模の国・毛利庄(神奈川県厚木市)がありました。毛利庄は息子の一人、四男の季光(すえみつ)に与えられました。季光は毛利庄に居住後、「毛利」を名字にするようになりました。これが毛利氏のはじまりと言われています。

季光はその後、承久の乱などで活躍をしますが、その後の「宝治合戦」で敗北し、息子たちとともに自刃します。しかし四男の経光のみ北条氏から許されます。その後経光は、その四男時親に、おそらく承久の乱のときに戦功として与えられていた安芸の吉田庄を譲ります。時代は鎌倉幕府滅亡→建武の新政→南北朝内乱と移っていき、老齢となった時頼は他の領地を直系以外の孫に譲り、曾孫の元春とともに吉田庄に移住し、郡山城を築城します。ここから安芸の国の国人領主の一つ毛利氏がはじまると言ってもよいでしょう。

その後、1467年からの応仁の乱などにも毛利氏は安芸守護の山名是豊に従って参加しています。そして明応6年(1497年)に毛利弘元の二男として、毛利元就が生まれます。

兄の興元の遺児幸松丸を補佐し毛利家を引っぱる元就

毛利元就の父親の毛利弘元は元就が10歳のときに39歳の若さで亡くなります。毛利家は長男の興元が家督を継ぎますがこの興元も永正13年(1516年)に24歳で亡くなります。元就の祖父の豊元も33歳で亡くなっており、親子3代に渡って若死にしています。元就曰く、すべて酒の飲み過ぎが原因だったらしく、元就は生涯通して酒をほとんど飲みませんでした。元就が当時にしては異様な高齢の75歳まで生きたのは、このあたりに原因がありそうです。

さて、兄の興元が死んだあと、毛利家の家督は興元の息子の幸松丸が継ぎますが、このとき2歳であり、元就が補佐役として支える体制になります。

当時の安芸の状況

毛利元就が兄の遺児の幸松丸を後見しはじめたころの安芸は、中小の国人領主が各々の領地を支配する状況でした。信長の野望などのゲームをやっていると、安芸の国一国は毛利が支配していてそこから周囲の国を制圧していったようなイメージがありますが、現実は一国を支配するどころではなく、毛利氏は数ある国人領主たちの一人に過ぎなく、さらに安芸の北方には出雲の尼子氏、西には周防長門の大内氏と周辺を強大な勢力に囲まれており、安芸の国人領主は尼子、大内の勢力争いに常に巻き込まれ、どちら側につくかの判断を常に迫られる状況でした。

そのような状況から毛利元就はどのようにして安芸と備中への支配力を強めていったのでしょうか?

コメント

タイトルとURLをコピーしました