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後趙君主、大魔王・石虎の養孫として石氏に仕えていた冉閔(当時は石閔と名乗っていた)は、後趙屈指の武将として、優れた武功を挙げていました。
大魔王・石虎が没したあと後趙は石氏一族が争う内乱状態に突入し、冉閔を味方につけたものが君主の座につくという状態になり、冉閔は後趙内の実力者にのし上がっていきました。
しかし冉閔の武力のおかげで君主の座を簒奪した石遵、石鑑は、君主になるとすぐに冉閔を誅殺しにかかります。
そのような混乱の中、冉閔は襲いかかる敵を返り討ちにしながら、後趙内の権力を奪取していき、349年12月には、自分に従おうとしない胡族20万を鄴にて虐殺するという血の儀式を行い、後趙内に割拠し鄴に襲いかかる石氏の残党どもを木っ端にし、鄴城内に石氏一族を殲滅します。
そして、350年1月、冉閔はとうとう魔王として即位、魔の国・後趙を継ぐ新しい魔の国・冉魏を建国します。
ここから輝かしい冉閔の国造りがはじまると思いきや、続くのは戦に継ぐ戦のさらなる乱世でした。
後趙の旧都・襄國では石虎の息子の一人石祗が割拠し、その他の華北の各地でも、冉閔に従おうとしないやつらが立ち上がり、戦国乱世の状況になっており、東北エリアでは超新星・慕容部が慕容廆、慕容皝と歴代蓄えてきた、その恐るべき武をもって、三代目・慕容儁の元ついに中原に殴り込みをかけるときが近づいていました。
魔王・冉閔と石氏残党、慕容鮮卑との血みどろの戦いがはじまろうとしていました。
※冉閔はこのとき「李閔」と名乗っていますので、「冉閔」に改名するまで、李閔(冉閔)と表記します。
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350年の東晋及び各地割拠勢力の動き
350年1月、李閔(冉閔)が皇帝の位に即位し、冉魏を建国したことにより、石氏の残党や、後趙の部将、東北エリアを制覇していた前燕、南の東晋もそれぞれいろいろな動きを開始します。
東晋
東晋は、中原が後趙の内乱で大いに乱れていることを見て、中原進出のチャンスと見ます。
揚州刺史の殷浩を中軍將軍、假節、都督揚‧豫‧徐‧兗‧青五州諸軍事に任命し、また、蒲洪を氐王、使持節、征北大將軍、都督河北諸軍事、冀州刺史、廣川郡公に任命、その息子の蒲健を假節、右將軍、監河北征討前鋒諸軍事、襄國公に任命するなど、蒲健勢力の気を引く動きをし、来たるべき北伐の準備を進めていきます。
また5月には、廬江太守の袁眞が冉魏の合肥を攻略します。
姚弋仲の勢力
姚弋仲は、後趙が瓦解していくなか、関中に帰りそこを本拠地にしようと考えます。そして、同じ関中をものにしようとする蒲洪の勢力に喧嘩をふっかけます。息子の姚襄に5万の兵を率いさせ蒲洪を攻撃、蒲洪も迎え撃ち、姚襄は大破されてしまいます。
前燕
前燕君主・燕王慕容儁は、後趙が内乱で混乱しているのをみて、かねてから計画していた華北進出を実行に移します。
350年2月に、慕容恪や慕容垂(この当時は慕容覇と名乗っているが、慕容垂と表記します。)を主攻として幽州へ侵攻し、薊(現在の北京)を攻略します。前燕は本拠を今までの龍城(現在の朝陽市)からより中原に近い薊に移し、華北進出に本腰を入れます。
前燕はこのあと、薊の南西にある范陽も攻略しますが、さらに南の冀州の魯口(今の饒陽県)の攻略に手間取り、一旦薊に引き上げます。
前燕は9月に、冀州の章武、河間の2郡を攻略し、冀州の北半分くらいまでを領土に加え、華北の攻略は着々を進んでいました。
蒲洪の勢力
蒲洪の勢力は姚弋仲と同じく関中を狙っておりました。
前述、姚襄の攻撃を退けたあと、蒲洪はこの時点で姓を改め苻氏を名乗り、大都督、大將軍、大單于、三秦王を自称します。(この後は苻洪と表記します。)
三秦王を名乗っている時点で、関中で割拠する気まんまんですね。
このように、関中を狙っていた苻洪でしたが、先に捕らえて家臣にしていたマシュー(麻秋)に毒殺されてしまいます。マシューは苻洪を殺してその勢力をまるごと自分のものにしようとしたのですが、苻洪の息子の苻健にあっさり殺されてしまいます。そりゃそうだろうよ、と思います。
苻洪は死に至るときに、
「わしがまだ関中に入らずいたのは、中原を先に取ろうとしたからじゃ。今わしは死のうとしているが、中原はお前ら兄弟の扱えるものではない。わしが死んだら、急いで関中に入るのじゃ!急げぃ!」
と遺言を残します。
これで苻氏勢力の方向性は決まりました。
関中はこのとき、杜洪という人物がしれっと自立をしていましたが、苻洪のあとを継いだ苻健は、350年8月勢力を引き連れ関中に殴り込みをかけます。
そして、10月には苻健は長安を攻略し、翌年の前秦建国に至ります。
段部勢力
鮮卑の段部は、東北エリアで慕容部と長年戦っていた部族ですが、後趙の段部討伐のあと、大人の段蘭が後趙に従属し、後趙国内で活動していました。
その段蘭が死去したあと、段龕(だんがん)があとを継ぎました。段龕は部族をまとめ、後趙が内乱で乱れているあいだに南に移動し陳留で割拠し、さらに、350年7月に東に移動し、山東半島の付け根あたりの広固(今の青州)で割拠し、斉王を自称します。
この国は段斉と呼ばれ、このあと短命ながら独立した勢力として活動します。
幷州の勢力
河北エリアから太行山脈を西に超えた幷州あたりでは、後趙の幷州刺史・張平という人物が、割拠の体制をとっていきます。このとき、前燕の趙榼が張平に帰順するなどしています。
張平の勢力はこの後、一時期、前燕や前秦と比肩できるくらいに勢力を伸ばしていきます。
後趙残党
さて、李閔(冉閔)によって、鄴を追われた後趙残党の勢力ですが、基本的には襄國に封じられていた石祗の元に集まり、李閔(冉閔)に反抗しようとします。
350年3月に石祗は襄國で後趙皇帝として即位し、鄴の冉魏皇帝・冉閔に対抗しようとします。
鄴と襄國の後趙の新旧首都は距離が近いこともあり、このあと、冉閔とばちばちに抗争を繰り広げます。
4月に石祗は、汝陰王・石琨に10万に兵を率いさせ冉魏を攻撃させます。
6月に石琨は邯鄲に駐屯し、そこで繁陽から進んできた鎭南將軍・劉國と合流し、冉魏へ進軍します。
これに対して、冉魏の魏衞將軍・王泰が迎撃し、石琨・劉國の軍を大破します。1万以上の死者を出し、石琨と劉國の軍は崩壊します。
李閔、冉閔に名を戻し、後趙残党と攻防を繰り広げる
さて350年は、前述のように華北で様々な勢力が割拠を繰り広げますが、李閔(冉閔)は襄國の後趙残党との激突を続けます。
冉閔に改名
李閔(冉閔)は、冉魏(正式名称は単純に「魏」という)を建国したあと、3月に自分の姓を元の冉に戻し、ここにはじめて「冉閔」と名乗るようになります。(もともと父親の冉瞻が、石虎の養子となったときから石瞻と名乗るようになり、その息子の冉閔も生まれたときから石姓を名乗っていた。)
※この後は冉閔と表記します。
冉閔は、国の体制を固めようとし、李農を太宰、領太尉、録尚書事に任じ、斉王とし、李農の息子たちも県公にするなど重用します。
そして、旧後趙領土内に割拠した勢力に使者を送りますが、ガン無視されます。
李農を誅殺
すでに闇落ちしている冉閔ですが、4月に李農やその息子たちをあっさり処刑してしまいます。後趙の武将だったころから、一緒に作戦行動を取ることも多く、建国後NO.2の立場に任命したマブダチ的な関係性だったのかなと思ったのですが、魔王になった冉閔にはそんなものは邪魔なだけです。
冉閔はこのときに冉魏の重臣をさらに数人処刑していますので、建国直後から末期症状の状態になるという冉魏クオリティーはさすがです。
後趙残党連合軍との戦い
350年8月に、張賀度、段勤、劉國、靳豚などの河北エリアに散らばっていた、後趙の残党の勢力が昌城で合流して、鄴を攻めてきました。
冉閔は自ら兵を率いて出陣し、蒼亭というところで張賀度などの連合軍を大破し、張賀度などは2万8千の死者を出し敗走します。靳豚は追撃を受け陰安で斬られ、その兵卒はことごとく捕虜にされました。
まさに五胡十六国時代最強の男・冉閔の強さを物語る一戦です。
この戦の結果、冉閔の兵卒は30万を超え、鄴へ帰還する軍隊は旗指し物がなびき、ドラや軍鼓が響き渡り、その長さは百里を超え、後趙が全盛期のときでもここまでの威勢はなかったであろうと言われました。
ここが、冉閔と冉魏の最盛期であったと思われます。
冉閔、襄國討伐の兵を挙げる
旧後趙の国内すべてでいろんな勢力が割拠し、各エリアで拠点だけでなく、面で統治する勢力がだんだんと出てきます。
しかし、冉閔にとって目障りなのは、鄴のすぐ近くの襄國で反冉閔の動きを続ける石祗の勢力です。
冉閔は350年11月に、10万の兵で襄國討伐の兵を挙げます。
しかしこれが冉魏の滅亡のはじまりでした。
まだ建国から10ヶ月くらいしか経っていませんが(泣)
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)
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