五胡十六国時代 魔王・冉閔の冉魏建国記 滅亡編② 襄國の戦い

冉閔

こんにちは。

351年1月、冉魏皇帝として冉閔でしたが、旧後趙国内の諸勢力が、ことごとく冉閔と対立、もしくは割拠していきます。

冉閔が作った魔の国は、建国1ヶ月目から分裂していきます。

のすぐ近くの襄國では、後趙の残党をまとめた石祗後趙皇帝として即位し、鄴周辺で割拠していた後趙の旧臣たちとともに鄴の冉閔へ攻撃をかけます。

また、苻氏が関中へ侵攻し長安を攻略し、段部の一部が広固で斉を建国(段斉)し、東北からは中原の混乱に乗じた鮮卑慕容部の前燕が、河北エリアに侵攻してきます。

建国=死に体である冉魏ですが、とりあえず冉閔の武の力によってなんとか維持されています。

ここで、冉閔は襄國の石祗を滅ぼそうと、兵を挙げます。

ここから冉魏滅亡のカウントダウンがはじまります。

350年、冉魏建国後の勢力変遷図

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冉閔の襄國攻撃

350年12月、冉閔は目障りな石祗を滅亡させるため、10万の兵を挙げ襄國へ攻撃をしかけようとします。

このときに、息子の冉胤を鄴の守備に置こうとしますが、このとき冉胤に大單于&騎騎大將軍という役職を与え、降伏してきた胡族を冉胤の配下に置こうとします。

どうも冉閔は今後は胡族を慰撫して味方につけようとしたらしいのですが、ちょっと前に胡族20万の虐殺を行っておきながら今さら何を言っているんだというレベルの方向転換です。

この処置には当然のように、群臣から反対意見がでます。

「胡族や羯族は我らの仇敵なので、万一の事が起こったら悔やんでも悔やみきれませんぞ。降伏してきた胡族どもは誅殺して、「大單于」なんていう役職は取り払うべきです」

今までの冉閔と冉魏の政策からしたらもっともな意見ですが、上記のように胡族を味方につけようと考えた冉閔は大激怒し、意見した群臣を誅殺してしまいます。

冉魏の建国からの混乱ぶりがとまりません。

襄國の石祗、援軍を求める

冉閔は100日に渡り襄國を包囲し攻撃します。

351年2月、後趙の君主・石祗「これはやばい、陥落しちゃう」と、

周囲の勢力に援軍を求めます。

石祗はまず皇帝の称するのをやめ、自らを趙王に降格させます。

そして、太尉の張舉を前燕に向かわせ、「伝国の玉璽をやるから、助けてくれ」と伝え援軍を求めます。

さらに、中軍將軍の張春姚弋仲のもとに向かわせこちらも援軍を求めます。

これに対して、姚弋仲の反応は早く、すぐに息子の姚襄を大将とした2万8千の兵で石祗の救援に向かわせます。

姚弋仲は出陣する姚襄にこう伝えます。

「冉閔は仁を捨て、義に背き、石氏をことごとく滅ぼした。儂は、石虎から大恩を受けており、必ずこの仇を取らねばならぬ。本来なら儂みずから出陣すべきなのじゃが、病に冒されたこの体ではそれもできぬ。お前の才能は冉閔の10倍に値する。やつの首を取るか、捕らえるかせずんば、儂の前に再びあらわれてはならぬぞ!」

じじい、かなり姚襄に気合を入れ送り出します。

姚弋仲は、使者を前燕に送り、援軍を襄國へ送ってやれと告げます。

これにより、前燕も御難將軍・悅綰に3万の兵を率いさせ、襄國へ向かわせます。

玉璽問題

冉閔は前燕が後趙に援軍を送るということを聞き、常煒という冉魏の重臣を使者にして、前燕が援軍を送るのをやめさせようとします。

すでに、後趙の味方をしようとしていた前燕君主・慕容儁封裕を常煒のところに派遣して、ゲキツメしようとします。

しかし、この常煒という人物は、かなりの剛直の士で、立派な答弁を行います。

さらに封裕は、後趙からの使者が持ち掛けてきた玉璽を渡すということを踏まえ、常煒に「玉璽はどこにあるのだ?」と質問します。

常煒ははっきりと「鄴にある」と答えます。

後趙からの使者の張舉「襄國にある」と答えているのと矛盾しており、慕容儁はこの時点では張舉の言うことを信じていたので、火あぶりの刑にすることを匂わせさらに常煒をゲキツメしようとします。

しかし、常煒はこれにも屈せず、理路整然と玉璽は鄴にあることをとき、後趙に味方することは筋が違うことを訴えます。

この常煒の堂々とした弁論に慕容儁も感じ入り、殺さずに龍城へ送り監禁します。

冉魏にも、優れた臣がいたようです。

ちなみに常煒はこのあと、前燕に仕え慕容儁に重用されたそうです。

冉閔、敗れる!襄國の戦い

さて、後趙君主・石祗皇位返上へりくだり外交が功を奏し、姚弋仲勢力と、前燕からの援軍を獲得しました。

冉閔が派遣した軍が敗退する

3月、姚襄と、冀州の信都に本拠を置いていた後趙の残党の一人汝陰王・石琨は、それぞれ兵を率いて襄國へ救援に向かいます。

冉閔は、車騎將軍の胡睦を派遣して長蘆で姚襄を防がせ、將軍の孫威黃丘へ派遣して石琨を防がせます。

しかし、両者ともあっさり敗退し逃げ帰ってきます。

冉閔、坊主の意見を採用し自らの出陣を決める

このふがいない結果をみて、冉閔は「わしが出るしかあるまい」と、自ら出撃しようとします。

ここで、衞將軍・王泰が冉閔を諌めます。

「まだ襄國が攻略できていないこの状況で、敵の援軍に対応しようとして出撃してしまえば、必ずや背後から攻撃されてしまいます。これは危ない選択です。ここは、固く陣を守り、敵の勢いをくじき、静かにその隙きを見極めてから反撃することが最上です。また、陛下が自ら出陣して万が一敗れてしまえば、大事は去ってしまいます。」

王泰は、以前、石琨や劉國を撃退するなど優秀な将軍でした。的確な進言に、冉閔も出陣をやめようとしますが、ここで、法饒という生臭さが、怪しげな星占いを持ち出して、「今、攻撃をしかけたら、百戦百勝間違いなしです!よいしょっ!」と冉閔を持ち上げます。

闇落ちして久しい冉閔は、当然のようにあっさりこのよいしょに乗ってしまい、

「わしは出陣することに決めた!あえて止めようとするものは斬る!」

兵をことごとく率いて出陣してしまいます。

襄國の戦い

冉閔と、姚襄、石琨が戦っている戦陣に、前燕の悦綰が軍を率いて到着します。

悦綰は騎兵を間をあけて配置し、芝をひかせ土埃を立てさせます。

これを見た冉魏の兵は、前燕の勢いが盛んであると思いビビり上がります。

どうも、冉魏の兵はもともと後趙軍の兵であり、後趙が前燕へ侵攻したときに手痛い敗北をくらっていることから、前燕兵に対する恐怖があったようです。

このような、心理的にも不利になった状態で、姚襄、石琨、悦綰から三面攻撃を受け、さらに襄國を守っていた石祗が出撃してきて冉魏軍の背後から攻撃をしかけてきます。

4方向から完全包囲され、さすがの五胡十六国時代最強の男・冉閔もなすすべがなく大敗してしまいます。

この戦いで、胡睦や司空の石璞、尚書令の徐機、中書監の盧諶などの諸将が討ち死に、戦死者10万を超えるという大打撃を冉魏は蒙ります。

襄國攻撃のとき10万を率いて出陣したので、10万が戦死というとほぼ全滅に近い被害であったと思われます。

冉閔は、なんとか切り抜け十数騎を従え鄴に敗走していきました。

351年3月襄国の戦いで包囲される冉閔軍

鄴城内の異変

冉閔が襄國で敗北したころ、鄴城内でも異変が起きます。

降伏してきた胡族・栗特康たちが、なんと鄴の留守を守っていた冉閔の息子・冉胤やその重臣たちを捕らえて、後趙の石祗に降伏してしまいます。

石祗は当然のように冉胤を処刑します。

これ、以前冉魏の臣たちが、「胡族は我らの仇敵なので、降伏してきた胡族を冉胤様の下につけて重用するなんてとんでもないことです。」と諫言を受けていましたが、まさにそのとおりのことになっています。

今回の襄國の戦いの大敗北も含めて、闇落ち魔王の冉閔は部下の諫言を聞くことができず、破滅への路を一歩一歩進んで行きます。

冉閔は密かに鄴の近くまで戻ってきましたが、それを知らない鄴城内は、冉閔はすでに死んだのではないかと大混乱に陥っていました。そこで、部下の張艾が冉閔に鄴郊外を無事を知らせるために回って民衆を安心させるとよいでしょう、と提案をして冉閔もこれに従います。これによってようやく冉閔死亡の噂は消え鄴周辺は落ち着いたようです。

冉閔は、鄴に帰ると、自分をよいしょしてこの大敗を招いた法饒親子をバラバラにして処刑したようです。

 

冉閔はなんとか生還しましたが、つい最近30万の兵で鄴へ意気揚々と凱旋した冉魏の軍隊は、この「襄國の戦い」でまさに塵と消えてしまいました。

このあと、冉魏は文字通り崩壊への道を進んでいきます。

 

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』


五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)


魏晋南北朝 (講談社学術文庫)

 

 

 

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