こんにちは。
前燕は慕容皝の時代に、遼東・遼西のライバル、宇文部・段部・高句麗などを打倒します。
348年慕容皝が死ぬと、息子の慕容儁が跡を継ぎます。
このときまでに、遼東・遼西を支配することに成功していた前燕は、いよいよ中原へと矛先を向けていきます。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
慕容儁
慕容儁は字を宣英といい、慕容皝の第二子でした。生まれたときに、祖父の慕容廆から、「この子の骨相(骨ぐみの上に現れた人の運命・性格)は常人とは異なる。我が家はこの運を得たぞ。」と喜びました。
成長すると、身長が八尺二寸(201センチ)になり、その姿は体が大きく立派で、広く書籍を読み、文武で才能がありました。
前にも書きましたが、慕容部の一族はほんとみんな身長が高く、体格に優れていたようです。
史書にも必ず身長の記述がありますので、特記するほど目立った背の高さだったのでしょう。
慕容皝の時代には、一軍の将として様々な戦いに参加をして手柄を挙げていますので、司令官としても申し分のない人物だったようです。
慕容儁即位時の華北・華南の状況
慕容儁が前燕を継いだ348年頃の華北・華南はどのような状況だったのでしょうか。
まず、華北では前燕にも侵攻してきた後趙の石虎が349年に死亡します。
石虎の死後、後趙では、五胡十六国名物の後継者争いの内乱が勃発します。
この内乱を制した石虎の養孫の石閔が、350年冉魏を建国します。石閔は名前を石虎の養孫になる前の冉閔に戻します。冉閔が建てた魏の国なので、この政権を冉魏といいます。
この華北の混乱の中で、華北西部では、氐族の苻健が351年に長安に入って、前秦を建国するなどの動きがあります。
華南を見てみると、慕容皝が没する前の347年に、東晋の桓温が成漢を滅ぼし、巴蜀の地を東晋が征服し、中華の南半分を東晋が支配することとなります。
甘粛エリアは相変わらず前涼の政権が支配している状態でした。
慕容儁即位後、中原は後趙の内乱→冉魏の建国(不安定な政権)→後趙の滅亡、と大混乱の極みにあり、中原進出を狙う前燕にとっては願ったり叶ったりの状態にありました。
慕容儁は、きたる中原侵攻への準備を着々と整えていきます。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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