武田信玄の信濃侵攻⑤ ~松本平の制圧~

歴史

塩尻峠の戦いで小笠原軍を完膚なきまでに叩きのめした信玄は、再び信濃制圧に取り掛かります。狙うは信濃の中心地、信府と呼ばれた松本平一帯の制圧です。


信虎・信玄・勝頼 武田三代


戦国大名と国衆 (角川選書)

松本平攻めの拠点、村井城を築く

信玄は信府奪取の橋頭堡として、天文17年(1548年)10月4日に村井城の建設をはじめます。この村井城、地図をみると諏訪方面から松本平に入って信府までのちょうど真ん中あたりの平地にあります。小笠原氏の本拠の林城から南に約8キロ、さらに木曾谷への入り口にも近い交通の要衝にあたります。小笠原長時から見ると、まさに喉元に刃を突き立てられたと同じくらいに危険な場所への築城でした。

信玄は次の年の天文18年(1549年)は佐久と上伊那の経略に追われますが、翌天文19年(1550年)になると再び、小笠原攻撃を再開します。

小笠原氏の居城、林城を落とす

7月3日に甲府を出陣し、7月10日に村井城に入ります。そして7月15日に林城の出城のイヌイ城を落とします。この報を聞いた小笠原の城、大城(林城)・深志・岡田・桐原・山家の城兵は逃亡し、島立・浅間の城も降伏します。さらにこの間に小笠原の主だった侍衆も続々と武田方についてきます。まさに雪崩のように諸将や城が武田に降ってしまい、小笠原長時は平瀬城に逃げ、その後村上義清を頼って落ちていきます。

こうしてほとんど損害なく信玄は信濃の府中を手に入れました。

筑摩郡平定の拠点として深志城を築城

信玄は小笠原氏の居城、林城を破却し、新しい松本平の拠点として深志城を修築します。深志の地は安曇郡へのアクセスもよく、周囲が低湿地で防御面でも優れていました。この深志城はその後松本城になります。

松本平を手に入れた信玄は、諏訪、上伊那、佐久、筑摩郡と支配することができました。

そして、再度、村上義清討伐へ向かいます。

【参考文献】
笹本正治『武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房、2005年11月)
平山優『武田信玄』 (吉川弘文館、2006年12月)


武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る (ミネルヴァ日本評伝選)


武田信玄 (歴史文化ライブラリー)

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