武田信玄の信濃侵攻⑥

歴史

信玄は天文19年(1550年)7月に松本平を手にいれました。


信虎・信玄・勝頼 武田三代


戦国大名と国衆 (角川選書)

砥石城へ

その勢いで8月に再度村上義清を討滅せんと出陣します。信玄はまず真田幸隆らを使って、川中島地方の侍衆を味方に引き込む工作を開始させます。武力による戦いの前に経略によってなるべく味方に有利な状況を作り上げるのは信玄の常套手段です。

8月5日に武田軍は長坂虎房が本隊に先立って出陣し、続いて足軽衆も出陣したので、まず村上方の和田城の兵が逃げ出します。

その後、信玄は8月19日に長窪に着陣し、28日に砥石城の近くに陣を張ります。

砥石崩れ

8月29日に戦闘が開始され、9月3日に砥石城のそばまで陣を寄せます。そして、9月9日に総攻撃をしましたが、戦況ははかばかしくなく、10月1日に退却するところを村上勢に襲われ一千の兵が討ち取られる惨敗を喫してしまいます。横田高松などの将も討ち死にしました。これが世に名高い「砥石崩れ」です。戦国最強軍団として名高い武田軍の、「上田原の戦い」と並んでの大敗の一つです。

2度も武田軍を一敗地に塗れさせた村上義清は対武田戦に自信を持ち、小笠原長時を助けて平瀬城を取り戻させ、佐久にも進出していきます。

このあと、小笠原の反抗と村上の攻勢を信玄はどう対処するのでしょうか。

【参考文献】
笹本正治『武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房、2005年11月)
平山優『武田信玄』 (吉川弘文館、2006年12月)


武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る (ミネルヴァ日本評伝選)


武田信玄 (歴史文化ライブラリー)

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