石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第二部「漢の将軍として戦う」⑥ 311年 晋の帝都・洛陽陥落 

石勒

こんにちは。

漢は劉聡がクーデターにより即位したあとも、国家戦略である対晋戦争と洛陽攻撃を継続していきます。

310年10月には、第三次洛陽攻撃を行いますが、諸将の連携があまり取れていないようで、またしても洛陽陥落には至りませんでした。

晋サイドも、重臣や将軍たちが対立しまくり、内部での争いのほうが激しいのではないかと思われる有様です。

とくに八王最後の一人司馬越は、やることなすことすべて晋の命を縮めているのではないかと思われる結果をもたらし、完全に疫病神状態です。

そんな中、我らが石勒は、南のほうに漫遊していき江南の支配を狙っているのではないかと思われる迷走をはじめます。

このあとどうなるのでしょうか?

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308年頃

石勒、南でのツアーにこだわる

この最近南の方に興味を持ち始めている石勒ですが、311年1月には江、漢(長江と漢水)周辺を本境地にしようかと思い始めていました。

参謀の張賓は、この案はよくないと石勒に伝えます。

おりしも、石勒の軍では食料不足の状態に陥り、また疫病が流行り多くの死者が出始めていました。

そこで、石勒は漢水を渡り、江夏を攻撃し、陥落させます。

また、2月には新蔡を攻撃し、新蔡莊王・司馬確南頓で殺し、許昌に進軍してここも落とします。南のほうにいたと思いきや、今度は少し北に移動したりと、フラフラして腰が定まりません。

最後の八王・司馬越の死と、晋の重臣の殲滅

司馬越憎し

晋の重鎮にして八王最後の生き残り司馬越は、このころ晋の名将にして反乱ブレーカーで、ルールに厳しく自分のところも部下も殺しまくる「屠伯」苟晞との仲が悪くなっていました。

苟晞は

「司馬元超(司馬越のこと)が宰相になって以来、天下は治まらず、むしろ乱れている!苟道將(苟晞のこと)はどうしてあやつに仕えることができようか!!」

と言い放ち、諸州に司馬越討伐の檄を飛ばします。

懐帝も、司馬越の専権行為や詔命に従わないこと、司馬越が洛陽に残した部下の粗暴な振る舞いなどを多いに憎んでいましたので、密かに苟晞に司馬越討伐の勅命を与えます。

司馬越、各方面から憎悪されています。自業自得としか言いようがありません。

司馬越の死

懐帝と苟晞のやりとりは、使者が捕らえられたので、司馬越の知ることになります。司馬越は苟晞の罪状を挙げ、苟晞を討とうと攻撃を仕掛けますが、苟晞に返り討ちにあいます。

これを聞いた司馬越は憤り病になり、311年3月後事を王衍に託して死去します。

西晋衰退の張本人と言ってもよい司馬越ですが、その死はさらに西晋滅亡への時を早めていきます。

石勒、王衍をはじめとする晋の皇族・重臣たちを殲滅する

311年4月、陳郡・苦県の寧平城周辺で、石勒が司馬越の葬儀の列を襲います。

葬儀の列にいた晋兵を大いに打ち破り、騎兵で取り囲み弓を撃ちまくり、将士10万人以上が討たれて、死体が山のように積み重なり、逃れたものは一人もいなかったといいます。

まさに「殲滅」と言っていい有様です。

そして、

太尉の王衍、襄陽王・司馬範、任城王・司馬濟、武陵莊王・司馬澹、西河王・司馬喜、梁懷王・司馬禧、齊王・司馬超、吏部尚書・劉望、廷尉・諸葛銓、豫州刺史・劉喬、太傅長史・庾敳などの晋の皇族、重臣の多くが石勒に囚われました。

石勒は王衍に「なぜ晋朝は今の状況に陥ったのだ?」と尋ねます。

王衍は、この期に及んで(司馬越から後事を託されているのに)、自分のできることはなかった、そもそも官に就きたいとも思わなかった、今の状況は自分の与り知るところではない、などと石勒に言い、そして、石勒が尊号を称すべきだ、なので自分は見逃してほしいと言い放ちます。

これには石勒も呆れ果て、

「あなたは若いときから朝廷に出仕し、その名声は四海に知れ渡っている。その身は重任を担っているのに、なぜ官に就きたいと思わなかったなどと言うことができようか。晋の天下を壊したのは、あなたでなくて誰であろうか!?」

と言います。

そのとおりです。

さて、捕虜になった晋の皇族・重臣たちはみな命乞いをしましたが、襄陽王・司馬範のみ乱れず立派な態度であったと言います。

石勒もこの態度をみて、

「わしは天下を多く歩いて来たが、このような立派な人物は見たことがない。生かすべきであろうか?」

孔萇と聞きます。

孔萇は、

「彼らは皆晋の王公どもであります。ついぞ我らの役には立たないでしょう。」

これを聞いた石勒は、

「もっともである。しかし剣で斬るのは忍びない」

と言い、夜中に人をやり垣を崩して彼らを圧殺したそうです。

そちらのほうがむごいのでは・・・(´Д`)と思いました。

その後、司馬越の棺をあばき、その死体を燃やしこう言います。

「天下を乱したのはこいつである。わしは天下のためにこれに報いるのだ。よってその骨まで燃やし天地に報告する。」

これによって司馬越の亡骸含め、晋の皇族・重臣など多くの支配層の貴族が屠られました。

おそらくは石勒のこの攻撃こそが晋の命脈を断ったと言っても過言ではないでしょう。

晋という国の中枢がここで消滅しました。

洛陽陥落

石勒が晋の中枢を殲滅したあと、311年5月に漢の劉聡が、前軍大將軍・呼延晏に2万7千の兵を率いさせ洛陽を攻撃させます。

迎え撃った晋軍は、12回の戦いにすべて敗れ死者3万人という惨敗を喫します。

この洛陽攻撃には、劉曜、王弥、石勒と当時の漢の主力がすべて参加します。漢の本気度がうかがえます。

呼延晏は、輜重を張方古壘というところに置き、自ら先鋒として洛陽を攻撃します。

洛陽の平昌門を攻めこれを落とし、東陽門や諸府寺を焼くなどしました。

6月になると、呼延晏は味方の続いての攻撃がなかったので、そのへんを掠奪して一旦引き上げます。

懐帝はそのすきに舟で洛水を渡り逃げようとしますが、これに気づいた呼延晏が舟を焼き失敗します。

このあと洛陽場内の晋の臣も次々と逃げ始め、ついに漢軍の総攻撃がはじまります。

王弥宣陽門を攻め、劉曜西明門を攻めます。そして王弥呼延晏宣陽門を破り、洛陽城の南宮に入り、太極前殿に侵入します。

そして、掠奪をほしいままにし、場内の宮人や宝物を収奪していきます。

この混乱の中、懐帝は洛陽を脱出し長安に逃げようとしますが、漢の兵に捕らえられてしまいます。

劉曜は西明門より侵入し武庫に駐屯します。そして、太子・司馬詮、吳孝王・司馬晏、竟陵王・司馬楙、右僕射・曹馥、尚書・閭丘沖、河南尹・劉默と晋の皇族・重臣を殺します。洛陽城内の死者は3万人超となりました。このとき劉曜は晋の恵帝の皇后・羊氏をさらいます。漢軍はさらに、晋の陵も暴き、宮廟、官符を焼き尽くします。

これにより洛陽は陥落、魏晋の首都として栄えた都は灰燼と帰してしまいました。

晋の洛陽帝都圏

懐帝は漢の首都・平陽へ連れ去られてしまい、晋はほぼ滅亡状態になります。

こうして漢は建国時からの戦略目標としていた洛陽を手にいれました。

しかし漢内部もそれなりにガタガタしていました。

王弥は洛陽攻撃の最中に劉曜と仲違いをし、自立をもくろみ始めます。

到着したころにはほぼ洛陽が陥落していた石勒も、洛陽陥落後、すぐ轘轅関より洛陽盆地を出て許昌に駐屯します。

また晋もまだ各地に残党が残っており、漢へ抵抗の姿勢を続けています。

 

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』


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