戦の前の武田信玄の動き
第一次川中島の戦いが終わり、武田信玄(晴信)は上杉謙信(当時は長尾景虎と名乗っている)率いる越後軍の強さを実感し、単純に正面から戦う前に、様々な手を打ち始めます。
まず、背後を固めるために、天文二十三年(1554年)、今川、北条との三国同盟を締結します。これで、背後を心配することなく信濃の経略、対上杉謙信戦に望むことができるようになりました。また、7月24日甲府を出陣し、南伊那の知久氏を破り信濃南部も手に入れます。7月には佐久地方で反乱が起こりましたので長男の義信を派遣して反乱を鎮圧します。これにより信濃南部と信濃東部を安定させ、対上杉謙信戦がスムーズに行くように地固めをしていきます。
信玄は南伊那制圧後、上杉謙信の家臣北条高広を調略し反乱を起こさせます。また、善光寺別当の栗田永寿も調略し上杉から離反させます。こうして善光寺平一帯が武田の勢力下に入りました。このように側面から、上杉謙信を崩していこうとします。謙信は善光寺を取り戻すべく、北条高広の反乱鎮圧後に川中島に出兵します。
第二次川中島の戦い
天文二十四年(1555年)4月に信濃に出兵した上杉謙信は善光寺平に陣を張ります。これに対し、栗田永寿は、善光寺の西にある旭山城に籠り対抗します。武田信玄も栗田永寿を支援するために川中島に出兵し、援軍3000と鉄砲300挺を旭山城に入れ、自らは犀川の南に布陣して上杉謙信と対峙しました。
7月19日に上杉謙信は兵に犀川を渡らせて武田軍を攻めさせますが、とくに大きな戦果を挙げられませんでした。その後、両軍は膠着状態に入り、対陣200日に及びます。
両軍とも長陣により、厭戦気分が広がり、武田信玄は調停を今川義元に依頼します。
これにより閏10月15日に講和が成立し両軍とも撤兵しました。
第二次川中島の講和条件と戦後の状況
第二次川中島の戦いの講和条件は、
①旭山城の破却
②北信の国衆(井上・須田・島津)らの本拠地への帰還
でした。
ただし村上義清は結局本拠への帰還はかないませんでした。そのエリアは完全に武田領になっていたためです。
善光寺平周辺の所有を上杉謙信と争いながらも、武田信玄はじわじわと北信エリアの実行支配と制圧を進めており、第二次川中島の戦いの講和内容も守る気はありません。すぐに善光寺平周辺の国衆に調略の手をのばします。これらの動きが第三次川中島の戦いにつながっていきます。
【参考文献】
笹本正治『武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房、2005年11月)
平山優『武田信玄』 (吉川弘文館、2006年12月)
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