中国史上最大級の戦乱の時代、五胡十六国時代。その各国の攻防を描く ~東北からの疾風、前燕の中原侵攻~④ 遼東・遼西を覇権を確固たるものにし慕容廆死す

前燕

こんにちは。

今回は、慕容部の危機と、慕容廆の死までを書きます。

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三国連合軍、慕容部へ攻め込む

319年、平州刺史で東夷校尉の崔毖は、慕容廆の勢力が大きくなり、その善政・人望により流民たちの多くが慕容部の領国へ移住していくのを、おもしろく思っていませんでした。そこで慕容廆を拘束しようとし、高句麗と宇文部・段部という他の鮮卑の部族を密かに結びつけます。そして、高句麗、宇文部、段部の三国連合軍が慕容廆を滅ぼそうと攻め込んで来ました。

東の高句麗、北の慕容部、西の段部と、慕容部の周辺に勢力を持つ、三国から攻められたのですから、慕容廆の治世では最大の危機であります。しかし慕容廆は動じません。

慕容廆の離間の策と鮮やかな迎撃

慕容廆は、高句麗、宇文部、段部の三国が崔毖の口車に乗せられた、烏合の衆であることを見抜き、まずは三国の分断を計ります。

三国連合軍が慕容部の本拠地棘城を囲みましたが、慕容廆は城門を固く閉ざして戦いません。

そして、牛肉や酒を宇文部の陣に送り、使者に大きな声で「昨日また崔毖の使者が来ました」と言わせます。これを聞いた、他の二軍は、宇文部は慕容部と通じているのではないかと疑いはじめます。

そして、宇文部の裏切りを怪しんだ高句麗と段部の軍は陣を払い帰国してしまいました。

これにより、宇文部は孤立し、慕容部とさしで戦うことになりますが、宇文部の族長、宇文悉獨官は引きません。単独で慕容部との決戦に挑みます。

同じ鮮卑族で隣り合った仇敵同士の慕容部と宇文部の戦いが再び始まります。

慕容廆は、精鋭を選び、息子で後継者の慕容皝に配し先鋒とします。また、これも息子の慕容翰にも精鋭をつけ伏兵として宇文部の陣を突かせようとします。そして、慕容廆は陣を組み、自ら進軍します。

先鋒同士が交戦をはじめたころ、伏兵の慕容翰は宇文部の陣に切り込み、火を放ちます。宇文部はなすすべもなく壊滅しました。

宇文悉獨官は、身一つでなんとか逃げますが、宇文部の軍はことごとく捕虜になりました。

こうして、離間の計と見事なまでの用兵で宇文部、段部、高句麗の三国連合軍をしりぞけた慕容廆は最大の危機を切り抜けました。

崔毖の逃亡と平州の支配権を東晋から認知される

この戦いのさなか、宇文部の陣から玉璽三紐を手に入れました。

この王者であることのしるしでもある玉璽を、あくまで晋の皇帝が中華皇帝である立場を取る慕容廆は、家臣の裴嶷に持たせ東晋へ届けさせます。

さて、三国連合軍で慕容廆を倒すことを計画した崔毖は、黒幕が自分であることが慕容廆にバレるのを恐れ、甥の燾を慕容廆の元に派遣して、戦勝をお祝いさせます。

しかし、先に三国の使者たちが和平のために棘城に着き、崔毖の口車に乗せられて挙兵した旨を慕容廆に伝えておりました。

燾が棘城に着いたとき、慕容廆は、武装兵で燾を囲み、今回の三国連合が崔毖のたくらみであることが露見していることを告げ締め上げました。

燾は恐れおののき、白状してしまいます。

慕容廆は、燾を通して、「降伏するのが上策。逃げるのは下策である」と伝えます。

崔毖は、数十騎のみを伴い、高句麗へ亡命しました。残った、崔毖の家来や兵は皆慕容廆に降伏し、慕容廆の勢力は拡大します。

320年になると、高句麗が遼東に攻め込んできますが、個別での侵攻など怖くありません。慕容廆はこれも撃破しました。

こうして、周辺三国からの侵攻という危機を切り抜けた慕容廆ですが、東晋の都建業に派遣した裴嶷が戻ってきて、東晋から、平州諸軍事、安北将軍、平州刺史などの多くの位を授けられました。

これは東晋が、慕容廆の平州統治を認めたことを意味します。

さらなる勢力拡大。段部への攻撃と、後趙を後ろ盾とした宇文部を撃破

その後、段部が支配地の統治がうまくいってないのを見ると、慕容廆は嫡子慕容皝に攻めさせ、名馬や宝物などを奪いました。

華北の統一しつつあった、後趙の石勒から同盟の使者が来ますが、慕容廆は同盟を拒否し、その使者を捕らえ建業に送ってしまいます。

石勒は激怒して、宇文乞得龜を派遣して慕容廆を攻めさせます。慕容廆は、慕容皝に命じ、これを迎え撃ちます。陣形は、裴嶷を右部都督に命じて拓跋部を率いさせ右翼にして、息子の慕容仁に左翼にしました。戦いは、慕容部の勝利に終わり、慕容廆は多くの兵を捕虜にし、勝ちに乗じて、宇文乞得龜の領域の城を落としていき、多くの財宝や数万戸に及ぶ人民を帰順させました。

慕容廆の死

333年に慕容廆は没します。在位は49年に及びました。

この慕容廆の在位中に、仇敵宇文部と激しい戦いを繰り広げながら、慕容部は遼東、遼西での勢力を確固たるものにしていきました。

慕容廆の死後、嫡子の慕容皝が即位しますが、ここでもまた、五胡十六国時代名物の兄弟による争いが起こります。

慕容廆についてはここまでです。慕容部の後継者争いと次代の慕容部についてはまた。

【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 


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