上伊那を攻略
諏訪郡を手に入れた信玄は、1545年4月11日、上伊那の高遠城攻略の軍を発します。15日に杖突峠に陣を張った信玄をみて、高遠頼継は17日に城を捨て逃げ出します。その後武田軍は高遠城の北西にある藤沢頼親の福与城を攻め、長い攻防の末に6月10日に和議に応じさせ、諏訪郡の隣の上伊那郡も武田の勢力下に入りました。
こうして、元の領地の甲斐の国に加え、信濃中部の諏訪郡と、信濃南部の上伊那郡を領地に加えます。
そのあと、信玄が狙いを定めたのは、佐久郡でした。
佐久への侵攻
信玄は、上伊那を手に入れる2年前の1543年9月に佐久の大井郷の大井貞隆を攻めています。そして、大井貞隆を生け捕りにし、隣りの望月一族を倒しました。
上伊那平定後の1546年に本格的に佐久に侵攻していき、大井貞隆の子、貞清を内山城に攻めます。5月20日には城兵も降伏し、内山城を明け渡した貞清も翌年5月には甲府へ出仕してきました。
こうして佐久郡のほとんども信玄の勢力下に入ります。
ただ、志賀城の笠原清繁だけは抵抗を続けます。この笠原清繁には、西上野の豪族や関東管領の上杉憲政が支援をします。佐久郡は上野の国への窓口にあたるので、彼らも他人事ではなかったようです。
志賀城を陥落させる
1547年7月18日に信玄は志賀城攻略の軍を起こします。笠原清繁は水の手を切られながらよく耐えます。金井秀景率いる上野軍が援軍として来ますが、武田軍は板垣信方・甘利虎泰・横田高松・多田三八が小田井原で迎え撃ち、8月6日、上野軍に快勝します。
その後、信玄はこの戦で討ち取った首を志賀城の周りに並べて城の士気を喪失させます。そして8月11日に城主城兵を討ち取り城は陥落します。
こうして佐久も武田の勢力下に入りました。
そして、佐久を手に入れたことにより、信濃最大の領主の村上義清と領地を接することになり、彼との決戦に望むことになります。
【参考文献】
笹本正治『武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房、2005年11月)
平山優『武田信玄』 (吉川弘文館、2006年12月)
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