こんにちは。
前回、411年~420年を書きました。
華北東部の北魏と北燕はこの時代はとくに大きな動きがありません。
しかし、華北西部は、関中から河南まで領土を広げていた後秦が、東晋の劉裕によって滅ぼされてしまいます。
東晋は、この一連の流れで洛陽と長安の二大重要シンボル都市を獲得しました。
しかし、長安にそこまで大きな駐留軍を残すことができなかったので、夏の赫連勃勃が大挙南下してきて、長安を中心とした関中エリアは夏の領土となってしまいました。
東晋でも大きな動きがあります。420年に南燕攻略、後秦攻略の大功を引っさげ、劉裕が東晋から禅譲を受け、宋を建国したのです。
五胡十六国時代が終わる前に東晋が滅びてしまいました。
隴西エリア、河西回廊エリアも、西秦が南涼を滅ぼしたり、北涼が西涼を滅ぼしたりして、再編が進んできます。
このような動きがある中、411年~420年のあいだは塞内で大きな戦争を行ってなかった北魏が420年代以降本気を出してきます。
ここからは一気に439年の北魏の華北統一までいきます。
以下、五胡十六国時代後期に登場するプレイヤー(国)たちです。
【関東エリア】
西燕、後燕、南燕、北燕、翟魏
【北の塞外エリア】
夏、北魏
【関中エリア】
前秦、後秦
【西の果てエリア】
西秦、後涼、南涼、北涼、西涼、後仇池、吐谷渾
【その他】
東晋、後蜀(譙蜀)
※420年までに滅びた国は塗りつぶしています。
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421年~439年
河西回廊を北涼が統一
前回も少し書きましたが、沮渠蒙遜率いる北涼は、南涼と西涼に挟み撃ちにされている絶望的な状況から抜け出します。414年に南涼が西秦に滅ぼされると、西涼へ力を向けられるようになり、420年に西涼から酒泉を奪い、421年3月には西涼を滅ぼして、敦煌までを領土にしました。
こうして河西回廊は北涼が統一しました。
西秦包囲網
西秦は409年に後秦から自立し、復活をしたあと、南涼を滅ぼし、南方では吐谷渾を攻め、四川西部あたりも領域に加えたりしましたが、421年に北涼が西涼を滅ぼすと、西秦にその軍事力を向けてきます。
夏も関中方面への圧力を増し、北涼、夏、吐谷渾が西秦包囲網を結成し、西秦は困難な状況に陥ります。
北魏・太武帝の即位と統一戦争の開始
423年に北魏の明元帝が死去し、長子の拓跋燾が即位します。これが太武帝です。
ここから北魏の華北統一への戦争がはじまります。
夏・赫連勃勃の死と北魏の夏侵攻
夏は赫連勃勃の下、統万城という首都をオルドスに築き、後秦滅亡後、東晋が支配していた関中への侵攻を開始します。そして関中も支配下にいれます。
しかし425年8月に赫連勃勃が死去し、赫連昌が跡を継ぎます。
その後426年10月から北魏の侵攻を受けるようになり、427年6月には太武帝自らが10万の軍を率いて侵攻してきます。そして統万城が北魏に落とされ、428年2月には赫連昌が北魏に捕らえられてしまい、夏は赫連昌の弟・赫連定が平涼で即位します。
夏は赫連勃勃死後、北魏の侵攻によりあっというまに衰えていきます。
夏が西秦を滅ぼすも、夏も吐谷渾によって滅亡
夏は430年11月にも北魏から攻撃を受け、赫連定は上邽に移動します。
西秦は、このとき前述の西秦包囲網や国内の反乱などで瀕死状態になっていましたが、北魏から逃げてきた夏がなんとさらに弱まっている西秦に対して攻撃を仕掛けてきて、431年1月に君主・乞伏暮末は降伏しました。
ここに西秦は滅亡しました。
夏も西秦を滅ぼしたあと、さらに西に逃げようと黄河を渡って移動しているときに、今度は吐谷渾に捕縛されてしまいます。(6月)
これにより、夏も滅亡しました。
北魏の北燕侵攻
さて、西の方でバチバチやっている頃、北魏の魔の手が東にも迫ってきます。
北燕は豆粒ほどの領土ながら、馮跋が君主になって以来善政を布いていたらしく、430年過ぎまで遼西の地で生き残ります。
430年に馮跋が病を得て、その後継を狙って一族内に混乱が起こります。馮跋は混乱の中幽閉され死去し、馮弘が跡を継ぎます。しかし後継者争いはまだ続き、馮弘の世子・馮崇が北魏に出奔、北魏の力を借りて亡命政権を作るなど、滅亡フラグが立ちまくります。
そんなこんだしているときに、西のほうで431年に夏が滅びたので、北魏の太武帝が432年から毎年のように北燕への攻撃を開始します。
436年3月に北魏は北燕に大侵攻を開始し、5月に馮弘は高句麗に亡命しました。
ここに北燕は滅亡しました。
北魏の北涼侵攻
さて、再度西の方に目を移すと、沮渠蒙遜率いる北涼が河西回廊を統一したあとも、夏や西秦と争いながらも命脈を保っていました。
しかし431年に西秦と夏が滅亡すると、北魏とがっつり隣り合うことになります。
沮渠蒙遜は、その外交センスをフル稼働させ、北魏から気に入られようと動きます。沮渠蒙遜は北魏から涼州牧・涼王に任じられたりし、狙い通りの関係性になりますが、433年4月にその沮渠蒙遜が病死してしまいます。
その後もしばらくは北魏と友好関係が続きますが、北魏は華北統一を狙っています。涼州にただ一国残った北涼をそのままにはしておきませんでした。
439年9月に太武帝自ら率いる北魏軍が北涼へ侵攻し姑臧に迫ります。君主・沮渠牧犍は万事休すとなり降伏し、
ここに北涼は滅びました。
北魏の華北統一、五胡十六国時代は終わりを告げます。おや?ちょっと待てよ
439年北魏が北涼を滅ぼすことによって、北魏は華北統一を達成します。
これにより、304年の劉淵の漢(前趙)建国より、136年間続いた五胡十六国時代は終わりを告げました。ここから南北朝時代が始まります。
が、ちょっと待ってください。
なんか一国忘れてませんか?
そうです。後仇池という国が実はまだ滅亡せずに残っているのです。
山岳地帯の天険に守られた仇池の地に割拠していた後仇池は、五胡十六国時代が終わったと言われている439年には滅びてないのです。
なんと粘り強い集団でしょう。
結局、後仇池は443年に北魏に滅ぼされてしまいますが、仇池の氐族はそのあとも自立したりして6世紀末まで存続します。
ちなみに「関羽と張飛が蘇ってもこいつにはかなわない」と言われ、南北朝時代最強武将と謳われる北魏の楊大眼は後仇池の君主・楊難当の孫にあたります。
五胡十六国時代後期、終了!
439年の北魏の華北統一で、五胡十六国時代は終わりを告げます。
この五胡十六国時代後期の流れもここで終了します。
だいぶ端折って書きましたが、それでも五胡十六国時代後期は、カオス過ぎて内容盛りだくさんでした。
いろいろな国でおもしろい興亡をやっていますので、そのあたりはまた今度個別に書きたいと思います。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
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