武田信玄の信濃侵攻⑧

歴史

武田軍の侵攻によって、葛尾城から逃げ延びた村上義清は、越後の上杉謙信(当時は長尾景虎)を頼ります。

高梨・井上・島津・須田・栗田などの北信濃の豪族も謙信方について信玄に対抗します。


信虎・信玄・勝頼 武田三代


戦国大名と国衆 (角川選書)

越後勢、信濃へ出陣

上杉謙信は、五千ほどの援軍を北信濃に派遣し、その兵と北信の連合軍を率いた村上義清は、4月20日武田の先方と接触をします。この戦いは、武田方が押され気味で、葛尾城も村上義清に奪い返されます。信玄は決戦をさけて、一旦兵を深志城に引きます。村上勢は坂木や小県の和田・塩田を奪還し、義清も塩田城に入城します。

武田軍の反撃→小県郡を取り戻す

信玄はこのときは形勢不利とみて、一旦甲府に引き上げますが、7月15日に甲府を出陣して、佐久口から信濃に入り、まず和田城を攻め落とします。その後、高鳥屋城、内村城も落とし、さらに兵を進め塩田城も落城させ、村上義清は再度逃亡します。これによって塩田平一帯を制圧して小県郡を再度制圧します。

第一次川中島の戦い

義清は上杉謙信に助けを求め、それにより謙信自ら信濃に出兵し武田軍を戦います。これが第一次川中島の戦いと言われる戦いです。この一連の戦いでは当初信玄が劣勢で筑摩郡まで上杉の侵攻を許してしまいます。その後、武田軍も上杉軍の退路をたとうとするなど反攻し、上杉軍は信濃から去ります。この戦いは川中島の中心部での戦いではなく部分的な衝突に終わりました。ただ上杉軍によって勢力を筑摩郡の北部まで一旦戻されてしまいます。今までは信濃の地域を支配する国衆との戦いでしたが、上杉軍は越後の国を統一している戦国大名であり、これまでの敵とはまったく違う相手です。この上杉謙信との戦いは川中島の戦いとしてでもこのあと4回(合計5回)行われます。川中島の戦いについてはまた別の機会に書きたいと思います。

この第一次川中島の戦いは、合戦そのものは武田軍が不利でしたが、一旦奪い返された、小県郡や葛尾城のある村上氏の本領、埴科郡も完全に掌握でき、最終的には一定の成果となりました。

信濃南部への侵攻

その後、信玄は目を南に向けて、信濃南部地方でまだ平定していなかった、下伊那と木曽に侵攻していきます。

【参考文献】
笹本正治『武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房、2005年11月)
平山優『武田信玄』 (吉川弘文館、2006年12月)


武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る (ミネルヴァ日本評伝選)


武田信玄 (歴史文化ライブラリー)

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