毛利元就

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「跡形もない城跡」~遺構がほとんどない地味な城たち~ 徳山城

昨年の夏に地元に帰省したときに行った徳山城跡も、遺構がほぼほぼ残っていない城です。遺構が残ってないレベルは、日本屈指ではないかと思うくらい何も残っておりません。 毛利藩の支藩・徳山藩 徳山城は、周防国の徳山に毛利藩の...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程⑪ ~陶晴賢の下剋上のすきに安芸と備後に勢力拡大~

家中の統制(井上一族の討滅) 元春、隆景を吉川家・尼子家に養子に入れ両家を乗っ取り、安芸国内の勢力を一気に拡大した元就ですが、その家中の統制も一つの課題となっていました。 直接のターゲットは、重臣の井上氏でした。 井上氏は元就...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程⑩ ~毛利両川の成立。吉川家も乗っ取る~

吉川興経の変転 吉川家の当主興経は尼子と大内の間の変転激しく動いていました。 吉田郡山城の戦いでは尼子方につき、尼子が敗戦すると一転大内に寝返り、月山富田城の戦いでは大内方として富田城に攻め込みながら、途中で尼子方に寝返りました。 ...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程⑨ ~毛利両川の成立。まずは小早川家を乗っ取る~

尼子の逆襲。大内氏の衰退。そして尼子氏も安芸の切り崩しに失敗。 第一次月山富田城の戦いで大内軍が敗北し、毛利元就はからくも吉田郡山城に退却しました。 この第一次月山富田城の戦いで、負けた大内氏はもとより、勝利した尼子氏も往年の勢いは...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程⑧ ~第一次月山富田城の戦い~

尼子経久の死 吉田郡山城の戦いに敗れて、出雲に退却した尼子氏にさらなる悲劇が遅います。 尼子氏の全盛を築いた尼子経久が84歳で死去しました。また、進出していた播磨・備前・備後・石見でも有力国人領主らが次々と離反していきます。 ...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程⑦ ~吉田郡山城の戦い~

尼子軍、安芸の国に侵入 尼子詮久(のちの晴久)は、天文9年(1540年)安芸に攻め入ってき、9月4日に吉田郡山城の西北4キロメートルの風越山に着陣します。 昔からの説では、この9月の尼子軍の侵攻の前に、先陣として尼子の精鋭部隊新宮党...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程⑥ ~平賀氏の内紛と吉田郡山城の戦いまでの過程~~

再び安芸への勢力浸透を試みる大内と尼子 大内氏と尼子氏がそれぞれの問題に対処していて、安芸の国に大きな圧力がかかってこない間に、安芸での勢力浸透に力を入れてきた元就ですが、そのつかの間の時間も終わりをつげます。 大内氏は、北九州で大...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程⑤ ~安芸国内での影響力を強化~

近隣の国人領主との関係を深める 毛利元就は、毛利氏の領地と隣り合う領地を支配し、安芸と石見にまたがる有力国人領主の高橋氏を滅ぼし、勢力を一気に広げます。 ちょうどこのとき、大内、尼子の二大勢力はそれぞれ安芸以外の方面に力を入れないと...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程④ ~安芸国人領主の盟主に~

大内方復帰後の元就の活躍 尼子方から大内方へ復帰した元就は、まず広島湾付近での武田氏との戦いに大内氏方とし参戦し、勝利に貢献します。さらに志和米山城(東広島市)の尼子方国人領主である天野氏攻めにも参戦し、和平仲介の調整を行い天野氏を大内方...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程③ ~家督相続から大内方への復帰~

毛利元就家督相続直後の騒動 甥の幸松丸が9歳で急死したあと、毛利元就は重臣たちに押され、毛利家の家督を継ぎます。 しかし、この家督継承はスムーズにことが進みませんでした。 宿老の中の、坂広秀と渡辺勝の二人は、元就が家督相続する...
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