毛利元就

歴史

毛利元就の防長侵攻① ~侵攻前の下準備~

毛利元就は、私の好きな戦国大名ベスト5に入る人物です。 山口県出身の私にとっては、地元の英雄でもあります。(毛利元就が広島代表か山口代表かは歴史好きな両県出身者のあいだで議論があります(笑)。出身は広島の吉田郡山で、毛利家藩として落ち着いた...
歴史

毛利元就の防長侵攻② ~玖珂郡平定~

防長侵攻スタート 防長侵攻のための根回しも終わり、いよいよ侵攻がはじまります。 弘治元年(1555年)10月5日に、元就は、陶晴賢の首実検を行ってすぐに小方(広島県大竹市)に移動しました。 そして、小方から山陽道を進み周防に入り、10月8日...
歴史

毛利元就の防長侵攻③ ~都濃郡平定~

都濃郡平定戦 玖珂郡を平定した元就は都濃郡の平定に向け進撃します。 元就は玖珂郡での一揆勢力の抵抗に懲りたためか、都濃郡攻略にあたっては、一村一村味方につけながら進撃することを指示するなど慎重に動きます。 都濃郡の守備拠点は、須々万沼城と富...
歴史

毛利元就の防長侵攻④ ~防長制圧完了~

佐波郡攻略 富田若山城を攻略することによって、元就は防長の玖珂郡と都濃郡の2つの郡を平定しました。(玖珂郡と都濃郡の間にある熊毛郡もこの間に平定されていると思われる) これにより防長2国の3分の1を切り取った勘定になります。元就の次の目標は...
歴史

毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程①

毛利元就と言えば、安芸の国(今の広島県の西半分)から出発し中国地方のほぼ全体を制圧した戦国大名として知られていますが、その過程のはじまりは安芸・備後(2国あわせて今の広島県全体)を支配下に置いたことからはじまります。のちの中国地方における毛...
歴史

毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程② ~元就が家督を継ぐまで~

甥、幸松丸の後見としての元就の動き 元就が幸松丸の後見となったころの安芸・備後は、多くの国人領主がそれぞれの所領を治める状態でした。国人領主は、自分の所有する土地は完全に自治しており、服属する大勢力が戦をするときには自らの兵力を率いて参戦し...
歴史

毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程③ ~家督相続から大内方への復帰~

毛利元就家督相続直後の騒動 甥の幸松丸が9歳で急死したあと、毛利元就は重臣たちに押され、毛利家の家督を継ぎます。 しかし、この家督継承はスムーズにことが進みませんでした。 宿老の中の、坂広秀と渡辺勝の二人は、元就が家督相続するときの重臣たち...
歴史

毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程④ ~安芸国人領主の盟主に~

大内方復帰後の元就の活躍 尼子方から大内方へ復帰した元就は、まず広島湾付近での武田氏との戦いに大内氏方とし参戦し、勝利に貢献します。さらに志和米山城(東広島市)の尼子方国人領主である天野氏攻めにも参戦し、和平仲介の調整を行い天野氏を大内方に...
歴史

毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程⑤ ~安芸国内での影響力を強化~

近隣の国人領主との関係を深める 毛利元就は、毛利氏の領地と隣り合う領地を支配し、安芸と石見にまたがる有力国人領主の高橋氏を滅ぼし、勢力を一気に広げます。 ちょうどこのとき、大内、尼子の二大勢力はそれぞれ安芸以外の方面に力を入れないといけない...
歴史

毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程⑥ ~平賀氏の内紛と吉田郡山城の戦いまでの過程~~

再び安芸への勢力浸透を試みる大内と尼子 大内氏と尼子氏がそれぞれの問題に対処していて、安芸の国に大きな圧力がかかってこない間に、安芸での勢力浸透に力を入れてきた元就ですが、そのつかの間の時間も終わりをつげます。 大内氏は、北九州で大友氏と対...
タイトルとURLをコピーしました