毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程③ ~家督相続から大内方への復帰~

歴史

毛利元就家督相続直後の騒動

甥の幸松丸が9歳で急死したあと、毛利元就は重臣たちに押され、毛利家の家督を継ぎます。

しかし、この家督継承はスムーズにことが進みませんでした。

宿老の中の、坂広秀と渡辺勝の二人は、元就が家督相続するときの重臣たちの要請状に連署していたにもかかわらず、元就の異母弟・相合元綱を擁立しようとします。この背景には尼子氏が裏で謀っていたと推測されます。元就が毛利家を相続するという了解は事前に尼子経久に取っていたにもかかわらずこのような事態になり、尼子経久の謀略の恐ろしさが垣間見えます。

この件に関しては、事前に謀略を察知した元就が、坂広秀と渡辺勝、そして異母弟の相合元綱を討ち取ることにより解決されます。

しかし、このことにより、毛利元就は尼子への不信感を強めました。

毛利元就家督相続時の安芸の勢力図

尼子氏との決別→大内方へ復帰

上記の家督相続のときの尼子の暗躍とともに、鏡山城攻略時の尼子からの恩賞の少なさも元就にとっては大きな不満となっていました。鏡山城の恩賞として与えられた土地が50貫文だったそうです。これは現代の価値に直すと500万円程度、兵を5~10人ほど増やせるほどの価値だったそうです。領主としては明らかに安い恩賞でした。

このような尼子への不信感から元就は大内方への復帰を画策します。

大永5年(1525年)に重臣の志道広良を使わせて、大内の重臣、陶興房(のちに下剋上で大内氏の実権を握る陶晴賢の父親)に復帰の交渉をさせます。

大内方としても安芸での挽回を狙っており、安芸の国内でも屈指の実力者になっていた毛利元就の復帰は願ったり叶ったりの話でした。

そこで、安芸西部の可部(広島市安佐北区)の700貫文、深川上下(広島市安佐北区)の300貫文、温品(広島市東区)の300貫文、久村(広島市安佐北区)の70貫文、合計1300貫文の領地を与えるという破格の条件を示し、毛利家を味方につけることに成功します。。

尼子の20倍の条件に加え、毛利氏が海に出る上で拠点となれる土地の獲得で、元就にとっても今後の飛躍の土台となる条件でした。

この大内方への復帰と、その後の動きによって毛利家は安芸の国人領主の中でも頭一つ抜ける立場になっていきます。

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