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314年、石勒は目の上のたんこぶ的に幽州で割拠していた王浚を「へりくだり戦略」で打倒し、薊を中心としたエリアを獲得します。
しかし、物事はそうはうまくはいかないらしく、薊の守将に任命した劉翰が鮮卑・段部の段匹磾に帰順してしまったり、邵續という人物も石勒から離れたりと、3歩進んでは2歩下がるという状態になっていました。
ただ、全体で見ると石勒の河北経略はじわじわと進んでいたようです。
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314年から316年頃にかけての他勢力の動き
さて、石勒が王浚と争っているころ、河北以外のエリアでも様々な興亡が行われていました。
拓跋猗盧、代を建国
鮮卑拓跋部の拓跋猗盧は、晋の最後の魂・劉琨と義兄弟のちぎりを結び、マブダチの関係でした。
拓跋猗盧は、これまでも劉琨を助け漢などとも戦っていました。
その功績などもあって315年に晋から代王に封じられます。
これが代の建国になります。
代という国は、この時期のあと、1回滅びてその後復活して北魏となり、五胡十六国時代を終わらせる勢力になりますが、今の時点では関係ありません。
南の方の晋の勢力圏は反乱が続出
漢によって洛陽は陥落し、懐帝が捕らえられ(313年処刑)ましたが、エリアごとに晋の残党は存続していました。
江南では琅琊王・司馬睿が建康を中心に勢力を保っていました。
ただ、この数年、司馬睿が統括するエリアでは、司馬睿勢力に対する反乱が続出していました。
これらの反乱は西晋・東晋通しての名将の一人、陶侃などの活躍で鎮定されていきます。
曹嶷、山東エリアで勢力を伸ばす
王弥の弟分で、王弥のもくろみにより青州方面の攻略をまかせれていた曹嶷は、王弥が石勒に殺害されたあとも、このエリアで割拠しており、315年のこの時期には斉・魯の間の郡県のほとんどを手に入れており、臨淄を本拠とし、10万以上の衆を率いてけっこうなノリノリ具合でした。
この曹嶷の調子の乗りようを見ていた石勒は、漢の君主・劉聡に
「あいつ調子乗って、東のほうを完全に自分のものにしちまってますよ。やっちまいましょうぜ。」
と上表しますが、劉聡は、石勒が曹嶷を倒して勢力のばすのがいやでこの申し出を断ります。
曹嶷はこのあとも意外と長く青州方面で割拠を続けます。
漢君主・劉聡の皇后乱立
漢の君主・劉聡は、以前から続けていた皇后乱立をこの時期も続けていて、皇后を立てては陳元達をはじめとする漢の臣たちに諌められるということを続けています。
漢の関中侵攻
漢は、朝廷では君主・劉聡が女狂いの皇后増加活動を繰り広げていましたが、西方では劉曜を中心に関中の攻略を継続していました。
関中では、晋の懐帝が処刑されたあと、司馬鄴(愍帝)が長安で皇帝に即位しており、関中一帯で晋の勢力を保ち漢に対抗していました。
劉曜を中心とした漢軍は、数年に及び関中へ攻撃をしかけますが、関中の晋軍はなかなか粘り強く漢軍の攻撃を跳ね返していました。
そうこうしているうちに316年を迎えます。
拓跋猗盧、弑される
晋の劉琨のマブダチで彼のピンチを何度も救って来た、鮮卑・拓跋部の拓跋猗盧ですが、代の国を建てたあと、長男の拓跋六脩との間に争いが起こり、拓跋六脩に殺されてしまいます。
その拓跋六脩もいとこの拓跋普根に滅ぼされ、拓跋普根も即位後すぐ死んでしまい、拓跋部はこのあと大混乱に陥ります。
この混乱で代の勢力の一部は、人質になっていた劉琨の息子を連れて劉琨の元に帰順します。
これにより劉琨の勢力が一時的に盛り返すようになります。
石勒、廩丘を攻める
この最近、動きがなかった石勒ですが、316年4月に石虎を派遣して廩丘の劉演を攻めます。
廩丘は黄河の南にあり、西晋の頃は兗州の州都でもありました。
劉演はちょっと前まで鄴を守っていましたが、石勒に鄴を落とされたあとは、廩丘に遷っていました。
この攻撃に対し、晋から幽州刺史に任命されてた段部の段匹磾使は弟の段文鴦を派遣して、劉演の救援に向かわせます。
しかし石虎は廩丘を落とし、劉演は段文鴦の軍に逃げ込みます。
石虎は劉演の弟の劉啓を捕らえ、そのあと軍を返し帰還しました。
西晋滅亡
さて、晋の本流は洛陽が陥落し懐帝が漢に捕らえられ処刑されたあと、関中の長安で司馬業(愍帝)が即位し、連年攻めてくる漢に対抗してきました。
数年間、漢の攻撃を跳ね返してきた晋ですが、316年運命のときを迎えます。
316年8月、漢の大司馬・劉曜が再度長安にせまります。
関中周辺にいた晋の将軍たちも長安を救うため兵を率いて一応駆けつけようとしますが、揃いも揃って漢の兵の強さを恐れある程度から進もうとしませんでした。
晋の相国・司馬保が胡崧を派遣して、一時霊台という地で劉曜の軍を破りますが、胡崧は皇帝の側近の麴允、索綝たちの権力が強化されるのを恐れ渭北に駐屯しそれ以上進もうとせず、ついには始平郡の槐里に兵を還してしまいました。
この期に及んでも、権力争いをしている晋臣たち、亡国の極みと言ってよいでしょう。
さて、劉曜はそのまま長安攻めを開始し、長安の外城を落とすことに成功します。麴允、索綝たちは退いて小城にこもり抵抗しますが、城外との連絡を断たれ、城内の食料はなくなり人相食むという悲惨な状況になります。
城内の多くが死に、逃げようとする者が後を絶たない状況でした。
ただこの中でも、涼州の張軌勢力(張軌は314年に死去)から出向して来ていた義勇兵1000人のみは、城を死守して、てことして動かずという粘り腰を見せます。
しかし、城内の食料危機はもはやどうしようもない状況が続き、11月に晋の皇帝・司馬鄴(愍帝)は、ここで降伏を決意、東門より城外へ出て漢に降ります。
司馬鄴はそのまま漢の首都・平陽まで連行されます。(317年に恥辱プレイののち処刑)
これにより、晋は一旦滅亡ということになります。(西晋の滅亡)
魏を簒奪し、三国時代を終わらせた晋ですが、武帝・司馬炎亡き後、王族同士の殺し合いを続け(八王の乱)、天下を混乱に陥れたあと、国内外にいた胡族の台頭を招いた末の滅亡でした。
西晋の滅亡により、五胡十六国時代はさらに激しく動いていきます。
石勒も王浚を滅ぼしたあと2年くらい大きな動きがありませんでしたが、このあと飛躍のときを迎えます。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)
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