石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第一部「戦乱の世に降り立つ」③ 晋への反乱の末、漢へ加入

石勒

こんにちは。

前回、石勒がデビューする時代までの中国史の流れを、後漢末から晋で八王の乱が起こる頃まで簡単に書き、石勒のデビューやその後にも関わってくる八王の乱の動きについても書きました。

八王の乱の最後の4分の1、司馬亮を倒すための三王起義以降、司馬氏の軍同士の戦いは、華北を舞台にして繰り広げられ、華北は大いに乱れます。

その混乱の中、八王の一人司馬穎の元にいた匈奴の劉淵が、部族の元に戻り并州で自立をし、漢を建国します。

石勒もそのタイミングで歴史の流れの中に登場しデビューを飾ります。

305年7月に河北エリアで起こる「公師藩の乱」がその舞台です。

 

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公師藩の乱

公師藩立つ

この頃、八王の乱はまだ進行であり、304年に幽州の王浚司馬騰から攻められた司馬穎は鄴から洛陽に逃げましたが、洛陽に着いた司馬穎は、皇太弟の身分を剥奪され実権も失ってしまいました。

司馬穎は、晋朝の実権を握ったとき、贅沢をして天下の信頼を失いましたが、地元・鄴ではまだ意外と人気があり、鄴がある河北エリアの人々は司馬穎の没落を憐れんだといいます。

そういう状況の中、305年7月に司馬穎の故将である公師藩が将軍を自称し、「趙」や「魏」の地で起兵し、すぐに数万の兵が集まりました。趙の地はだいたい邯鄲があるエリアで、魏の地は鄴がある魏郡あたりであると思われますので、だいたい、河北エリアを舞台とした表向きは現晋朝の実権を握る者たちに対する反乱であったと思われます。

この公師藩立つの報を聞いた、「群盗」汲桑と石勒は、数百騎の部下を引き連れ、公師藩の反乱軍に合流しました。

石勒と名乗る

実はこのタイミングで、石勒は汲桑から石という姓と、勒という名を授かったようです。

ここから正式に「石勒」の名で行動し始めます。

この関係性をみると、あくまで汲桑のほうが兄貴分であったようです。

公師藩、鄴を攻める

さて、公師藩の反乱勢力は、郡県を荒らし回り、晋の「二千石」という役名の地方長官たちと、長吏たちを殺しまくります。

そして進軍を続け、このエリアの中心都市・へ攻撃をしかけます。

鄴を守っていた平昌公・司馬模は驚愕します。

晋の名将・苟晞、公師藩の反乱軍を討ち破る

この鄴攻撃の報を聞いた范陽王・司馬虓は配下の将軍・苟晞(こうき)に鄴救援に向かわせます。

この苟晞はこのあと反乱軍を次々と討ち破り、反晋勢力にとってはまさに死神のような存在になります。

苟晞は広平太守・丁紹とともに、公師藩の軍を攻撃、これを撃破します。

公師藩の乱は翌306年も続きます。

306年8月に関中から脱出した司馬穎が武関経由で南陽盆地の新野に出てきて、その後黄河を渡り朝歌まで来ます。司馬穎は数百人の兵を集めることに成功をし、公師藩に合流をしようとします。

しかし、ここで頓丘郡太守の馮嵩に捕まってしまい、鄴へ送還されてしまいます。(その後鄴で死を賜る)

9月、公師藩も白馬より黄河を南に渡りますが、ここで苟晞の軍に攻撃され、斬られてしまいました。

ここに公師藩の乱は終わりを告げます。

八王の乱の終焉

公師藩の乱終了後、306年10月に鄴に幽閉されていた司馬穎が殺され、11月には恵帝が没し、12月には司馬越に恭順しようとし、長安から洛陽に向かっていた司馬顒が途中で殺されてしまい、司馬越一人が残り八王の乱は終わります。

「汲桑の乱」が発生

307年公師藩の配下であった汲桑は、元いた茌平の牧場に逃げ帰り、ここで兵を集め周りの郡県を掠奪してまわります。そして大将軍を自称し、司馬穎の仇を討つことを大義名分にして反乱を起こします。

石勒、反乱軍の先鋒として鄴の司馬騰を攻める

汲桑は子分の石勒を先鋒にして、向かうところ敵なしの快進撃を続けついに鄴近くまで進行していきます。

このときの鄴は、城主、范陽王・司馬虓が没しており、後任に新蔡王・司馬騰が城主になっていました。

司馬騰、石勒にとっては、奴隷に落ちるきっかけを作った憎き馬野郎です。

このとき、鄴は食料不足の状態に陥っておりましたが司馬騰自体は豊富な物資を確保していたようです。しかし司馬騰はケチで有名な馬野郎で、汲桑の反乱軍が攻めてくるという緊急事態になって初めて、物資を兵士たちに分配したそうなのですが、これがまた微々たるものだったので、兵士たちは呆れて離散してしまったようです。

愚かな司馬野郎一族の典型なような人物です。

307年5月、汲桑の反乱軍は迎え撃ってきた魏郡太守・馮嵩を大破しついに鄴へ到達します。

司馬騰は速攻で軽騎で逃走し、汲桑の部将である李豊に追いつかれ殺されます。馬野郎の自業自得な最後でした。

汲桑、鄴を焼き南へ向かう

こうして河北エリアの中心都市・を陥落させた汲桑でしたが、しょせんは群盗でした。

すぐさま鄴の宮殿に火を放つ燃やし、万以上の鄴の兵士・民衆を殺戮し、城内を掠奪しつくした末、鄴から去ります。

おそらく、鄴城内の食料がないことから、食料を求めての移動だったのではと思われます。

鄴を去った汲桑は延津より黄河を南に渡り、兗州を攻撃します。

司馬越はこの報を聞き、大いに恐れ、苟晞陳留内史・王讃に命じて、汲桑の反乱軍を迎撃させます。

石勒vs苟晞

汲桑軍の先鋒・石勒晋の名将・苟晞は、平原陽平の間を戦場にし大小30の戦いを繰り広げます。

この戦いはまさに互角で勝負がつきませんでした。

苟晞は紛れもなく晋が誇る名将で、その苟晞が率いる晋の正規軍は精鋭であるに違いありません。(苟晞は「韓信・白起の再来」と呼ばれたほどの名将ですが、法律や軍律に厳しすぎて当時の人々から「屠伯」という異名をつけられました。屠る伯、どれだけ死刑を実行したんだ・・・)

その苟晞を相手取り、たいした装備もなさそうな群盗崩れの軍が互角の戦いをするということから、のちの英雄王・石勒の将才がうかがえます。

この膠着状態に司馬越も軍を率いて、官渡まで出てきて苟晞の援護をします。

汲桑の反乱軍、苟晞に敗れる

そうこうしているうちに、苟晞は307年8月に陽平郡の東武陽の地で汲桑軍を大破します。

汲桑は北の清淵の地まで退却します。

苟晞は汲桑を追撃し、9月には汲桑軍の砦8ヶ所を攻略し、汲桑軍の死者は1万を超える状態になりました。

このような状況で汲桑と石勒は勢力を維持することが困難になり、劉淵の漢に帰順しようと動きます。

しかし勢いにのった晋軍は追撃の手をゆるめず、冀州刺史丁紹赤橋で、劉淵の元に向かおうとしていた汲桑と石勒を待ち受け、撃破します。

これにより汲桑の反乱軍は分解してしまい、汲桑は茌平の牧場に逃げ石勒は并州の楽平に逃げようとします。

これにより汲桑の反乱軍は壊滅、「汲桑の乱」は終わりを告げます。

307年汲桑の乱関連図

汲桑の死

このとき、分かれて逃げた石勒と汲桑二人の運命は大きく異なっていきます。

このあと12月に乞活田禋、田蘭、薄盛たちが司馬騰の仇として兵を挙げ、汲桑は楽陵で斬られてしまいます。

石勒、漢の劉淵に帰順する

張㔨督と馮莫突とともに漢に帰順

一方石勒は、上党で数千の兵を擁して跋扈していた張㔨督・馮莫突の勢力に身を寄せます。

石勒はここで新参者のくせに張㔨督と馮莫突を説得しにかかります。

「劉単于(劉淵)は兵を挙げて晋を討とうとしておるが、張親分たちは劉単于の誘いを拒みまだ従っていない。今後もこのまま自立できると思っているのか?」

張㔨督「思ってねえ」と答えます。

「それなら、すぐにでも劉単于に帰順すべきだ。今、部落の衆たちは皆すでに劉単于から誘いを受けており、つねづね張親分たちから離れて劉単于の元にいこうと話をしているのだぞ」

張㔨督は石勒の言うことは最もだと思い、10月に石勒とともに劉淵に帰順しました。

劉淵張㔨督馮莫突、そして石勒の帰順を歓迎し、然るべき役職に任命します。

石勒はこのとき輔漢将軍に就任します。「漢を輔ける将軍」ですね。

石勒、烏桓の張伏利度の勢力を乗っ取る

石勒は、張㔨督馮莫突という部落の長を手土産に漢に帰順しましたが、これだけでは手土産が少ないと思ったのか、さらなる営業活動を行います。

烏桓の張伏利度が二千の手下とともに楽平というところに砦を作り立てこもっており、劉淵からの誘いを拒んでいました。

石勒は、ニセの罪を得て、劉淵から叛したと見せかけ、張伏利度の元に出奔します。

張伏利度はこの石勒の投降に喜び、義兄弟の契りを結びます。

「公師藩の乱」や「汲桑の乱」で名を挙げ、韓信・白起とも並び称されるほどの晋の名将・苟晞とも互角に戦った石勒は、河北では有名人になっていたのかもしれません。

張伏利度は石勒に胡族の手勢を率いさせ、周辺を掠奪して回らせます。

石勒率いる軍は向かうところ敵なしの状態で周辺を蹂躙し、周辺の胡族たちは石勒をおそれ服従するようになりました。

石勒は、胡族どもが自分をおそれ敬う状態を作り、ここでいきなり張伏利度を捕らえ、胡族どもに言います。

「今この戦乱の時代、わしと張伏利度のどちらが頭としてふさわしいと思うか?」

胡族どもは、みな「石勒様でございます」と言います。

石勒はここで張伏利度を解放し、その子分ども率いて劉淵の元に戻りました。

まさにほぼほぼ力技に近い謀略で張伏利度の勢力をのっとり、2千の兵隊を集めて漢の勢力にすることに成功しました。

劉淵もこの成果を喜び、石勒に都督山東征討諸軍事という役職を与え、張伏利度の手下どもを率いることを許します。

漢の将軍となり飛躍のきっかけを掴んだ石勒

石勒は自らの才覚によって、帰順後早くも漢の一将軍となり軍を率いる立場になることに成功します。

このことが今後の石勒の飛躍につながってきます。

ここで、第一部は終了になります。

このあと第二部では、漢の将軍となった石勒の戦いを描きます。

その戦いは、漢の対晋戦争の進行(永嘉の乱)とも重なります。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』


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