こんにちは。
慕容暐が前燕の皇帝として即位したあと、慕容恪、慕容評とともに、先帝慕容儁から慕容暐のことを託された一人、慕輿根が実権を握ろうと暗躍しはじめます。しかしその企みはことごとく失敗に終わり、最終的には誅殺されてしまいました。
これにより慕容恪が国の実権を握ります。
そして、華北東部支配に向けて残された河南エリアの制圧に進んでいきます。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
淮水まで騎兵を進め大いに士気が上がる
慕輿根を誅殺したあと、前燕は傅顔という武将に騎兵2万を率いさせ河南を観兵させ淮水の線までたどり着きます。このパフォーマンスにより、前燕軍の士気は大いに高まりました。
呂護を討伐
慕容儁の時代に寧南将軍に任命された呂護という人物は野王という街に駐屯しておりました。
慕容儁から任命されたと行っても、実質は割拠している状態で、慕容儁時代から、後趙、前燕、東晋、その他割拠勢力の間をいったりきたりしながら勢力を築いてきた梟雄です。
なんとなく松永久秀を思い起こしてしまいます。
さて、その呂護は、このときには表向きは前燕に仕えていましたが、影で東晋とつながっていました。慕容儁が死去したあとその隙をついて東晋の軍を引き入れ鄴を襲撃する計画を立てました。
この計画は発覚し、慕容暐は慕容恪に兵50000を率いさせ呂護を討伐させました。
慕容恪の持久戦法が冴えを見せる
傅顔は慕容恪に、「広固攻撃のときは持久戦を取ったが、今回は敵の士気がかなり落ちているから速攻で相手を倒し、戦費を節約すればいいでしょう」と進言しました。
これに対して慕容恪は、
「呂護は老賊で、備えをきちんとしているのでまだすぐには平定することができないであろう。今は城を囲み持久戦に持ち込めば、備蓄した兵糧も亡くなり、外部からの救援も無く、100日もしないうちに落とすことができるであろう。どうして兵の命を犠牲にしてまで一時の利を取ることができようか。固く包囲し将兵を休ませ、離間の策を進めれば、自軍は疲労せず、敵に勢いは無くなっていくだろう。これにより、自軍は傷つかず、座して勝利を得ることができるだろう。」
と言い、長期戦の構えを取ります。
広固攻略のときと同じく、慕容恪の必殺兵法「十囲五攻」がこのときも冴え渡ります。
窮した呂護は、配下の張興に兵7千を率いさせ城を出撃し前燕軍を攻めますが、傅顔によって返り討ちにあい斬られます。
そして、3月~8月にかけて攻囲戦は続き、とうとう野王は陥落します。
呂護、東晋に降るも再度前燕に帰順してくる
呂護は南に逃走し東晋に逃げ込みます。
呂護の配下の兵はことごとく降伏します。
こうして野王に割拠していた呂護を打ち破った前燕軍ですが、この呂護は東晋に再度背き、なんとまた前燕に降伏して来ます。慕容暐はこれを許し、元のように任用しました。
まさに「五胡十六国の松永久秀。」
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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