五胡十六国時代 魔王・冉閔の冉魏建国記 地獄への飛翔編⑥「東晋の北伐その2と、石鑑のクーデター」

冉閔

こんにちは。

石虎の死後、石世が跡を継いだ後趙ですが、すぐ内乱が起きます。

石虎の息子の一人、石遵がクーデターを起こし、石世を廃し君主になります。

それで終わりかと思いきや、石遵の即位に反対する石氏一族が続いて反乱を起こし、後趙は内乱状態に突入していきます。

まず、薊(今の北京あたり)に封ぜられていた沛王・石沖が、鄴に攻め込んでいきますが、石閔(冉閔)と李農率いる軍に迎え撃たれ大破されます。

その後、後趙の混乱をみた東晋の褚裒が北伐の軍を起こしますが、これも李農に打ち破られます。

このように後趙は内乱と南からの攻撃によって混乱していきますが、本番はこれからです。

※冉閔はこのとき「石閔」と名乗っていますので、以下では石閔と表記します。

349年4月、石虎の死直後の地図

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石虎のバカ息子リスト

前回同様、争い続ける石虎の息子たちを一覧にしておきます。

①~④は、石虎以後、君主になった順です。
この回までに死去しているのがわかるやつは横線入れてます。

●石邃(初代太子、石宣と石韜を憎み殺害も考え、さらに石虎にも反抗的な態度を取り、処刑される)
●石宣(2代目太子、石韜を殺したので石虎から処刑される)
●秦公 石韜(石虎から寵愛されていたので、調子にのって石宣に殺される)
↑ここまでが、石虎死去以前に、冥府に旅立っている奴ら

↓下記のピンクが石虎死後、争いあったやつら(今後の動きも簡単に記載しています。)
③義陽王 石鑑
(クーデターによって石遵から皇位を簒奪する)

●沛王 石沖(石遵に反抗して攻めてくるも石閔と李農に撃退され処刑される)

②彭城王 石遵
(クーデターによって石世から皇位を簒奪する)


●楽平王 石苞
(石遵に反抗して攻めようとするも諸事情で攻めることができなくなり、鄴に召喚される)


●燕王 石斌
(石虎死後、劉太后と張豺によってはめられ、殺される)


●梁王 石挺


●汝陰王 石琨
(後趙の権力を握った冉閔に対抗する)


④新興王 石祗
(石鑑が冉閔に殺されたあと襄国で即位、冉閔に対抗、後趙最後の君主)


●楽安王 石炳


①斉公 石世
(石宣処刑後、3代目太子になり、石虎の跡を継ぐが、石遵のクーデターで廃位)

その他
●石瞻
(冉良)(石虎の養子、冉閔の父)※もちろん上記の息子たちより年上。だいぶ前に死去

楽平王・石苞が反乱を起こそうとするも東晋・司馬勲の北伐をくらう

349年8月、東晋・褚裒が北伐の軍が引き上げた同じ時期に、関中ではこの地に封ぜられていた楽平王・石苞が関中の兵を率いて鄴を攻めることをもくろみます。

石苞の配下、ことごとく石苞は失敗すると思う

このたくらみを聞いた配下の左長史の石光や司馬の曹曜は、「こんなの成功するわけがねえ。」と、石苞を固く諌めますが、石苞は腹をたて、石光、曹曜たち100人を処刑してしまいます。

こいつもろくでもないやつです。

もともと、石苞に鄴攻略のための緻密な謀略などあるわけもなく、関中の豪族たちは「100パー成功しねえ。」と思い、東晋に使者を送り、「石苞のやつやべえから、わたしたちあなた方に従いますぅ」と東晋にすがります。

司馬勳の北伐

これを受けた東晋サイドは、梁州刺史の司馬勳が任地の漢中の地から関中エリアを獲ろうとして北伐の軍を起こします。

褚裒の北伐に続き、この年2回めの北伐です。

東晋は今後数年に渡り、北伐ブームに湧きます。

さて、司馬勳は駱谷へ出張り、後趙の長城戍という防衛拠点を攻略します。

ちなみに長城戍は、三国時代に魏の司馬望や鄧艾が、ここを拠点に蜀漢の姜維を防いだ場所だそうです。

司馬勳はその後、長安から200里の距離にある懸鉤という砦に駐屯し、治中の劉煥に長安攻略を命じます。

劉煥は後趙の京兆太守・劉秀離を敗死させ、賀城を攻略します。

三輔(関中)の豪傑たちは、後趙の守令たちを殺し、東晋の司馬勳に応じようとします。30を超える砦と5万人が東晋に応じようとしたということなので、かなりの数が東晋サイドに味方しようとしたようです。

後趙の迎撃

鄴を攻めようとしていた石苞は、「これはやべえ」と鄴への進攻を中止し、麻秋姚國に兵を率いさせ東晋軍を防ごうとします。

東晋軍が関中に攻め込んだことを聞いた後趙君主・石遵は、車騎將軍の王朗に2万の兵を率いさせ関中に向かわせ東晋軍の侵攻を防ごうとします。

と、同時に王朗は石苞を鄴に召喚する役もおびており、石苞を脅しあげ鄴へ送還してしまいました。

石苞というやつはいったい何なんでしょうか?

司馬勳、荊州の宛の奪取に成功する

東晋の司馬勳は率いる兵が少なかったことから、関中の攻略を諦め兵を引き上げます。

ただそのときに、荊州の宛を急襲し、後趙の南陽太守・袁景を敗死させ梁州に帰っていきました。

関中から宛を攻めたということは、武関がある山の間のルートを関中から南東へ進攻していったと思われます。秦末に劉邦が関中に攻め込んだときと同じルートを逆の方向に攻めて行ったようですね。

東晋は関中は獲得できなかったのですが、宛がある南陽盆地北部を獲得したというのは、今後の北伐にも有利に働くことであろうと思います。

石苞のクーデター未遂と、東晋・司馬勲の北伐の関連地図

石閔(冉閔)抹殺計画と、石鑑のクーデター

東晋からの北伐がひといきついた349年11月に今度は後趙の朝廷で政変が起こります。

後趙君主・石遵は、皇帝になった途端、石閔を除こうと画策します。

まったくどうしようもない一族です。

石遵と石閔の確執

石遵は石世に対してクーデターを起こし李城から鄴へ向かうときに、石閔へこう言います。

「努めよ!事が成れば、おまえを太子にしてやろうぞ」

しかしその舌の根も乾かぬうちに石遵は石衍を太子にたててしまいました。

一方、石閔も今までの功績を誇り、朝政を自分のほしいままにしようとしますが、石遵は聞き入れません。

石閔は驍勇を誇り、多くの戦功を立ててきましたので、胡族や漢人の宿将たちどちらからもおそれられていました。

さらにすでに後趙の都督になっており、内外の兵権を統べていたので、殿中の将士たちによりよい爵位を与えようと働きかけていました。

しかし、石遵は石閔の威名がますます上がってしまうことを恐れ、これを却下します。

これにより、人々は石遵への怒りをつのらせました。

そして、中書令の孟準や、左衛将軍の王鸞が石遵に、石閔の兵権を徐々に奪っていくことを勧めます。このことにより、石閔は石遵にますます恨みをつのらせました。

ここにいたり孟準は石遵に石閔を誅殺することを勧めます。

349年11月に石遵は、石鑑、石苞、石琨、石昭などの一族を集め、鄭太后の前で石閔を誅殺することを伝えます。一堂、「それがよろしいでしょう。」と賛成しますが、鄭太后は、

「李城より兵を返すとき、石閔がいなければ、今の我々はないであろう。多少奢っているところがあろうとも誅殺などすべきではない!」

と反対します。

そのようなやりとりがされているときに、

石鑑が部屋を抜け出し、宦官をつかい、誅殺の計画があがっていることを石閔にちくります。

さきほど「それがよろしいでしょう。」と石閔の誅殺に賛成していたのに、あっさりと石遵を裏切るという、石虎の息子どもの醜さがよく出ています。

石鑑のクーデター

さて、自身の誅殺計画を石鑑から聞いた石閔は、李農右衛将軍の王基と計り、石遵を廃位し石鑑を即位させる計画を密かに進め始めます。

そして、ついに蘇彦と周成に3千の兵を率いさせ鄴城内の南台で碁を打っていた石遵を襲い、捕らえさせます。

石遵はクーデターの首謀者が石鑑であることを知ると、

「儂でさえもこのような始末になったのだ。石鑑のやつは果たしていつまで持つかな?わっはっは。」

と捨て台詞を残し琨華殿で処刑されました。

鄭太后、張皇后、皇太子・石衍、孟準、王鸞、張斐なども一緒に処刑されてしまいます。

鄭太后は石閔をかばったのに一緒に処刑されてしまい、少し可哀想な気がします。

石鑑の即位

これにより、石鑑のクーデターは(石閔の力を借り)成功し、後趙皇帝として即位します。

石閔もクーデターの功績により、大将軍に任命され、武徳王となります。

まさに後趙の権力の中枢まで昇ってきました。

さて、皇帝の座についた石鑑ですが、まず最初にやろうとしたことは、石閔を暗殺することでした。

まったくどうしようもないやつらです。

 

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』


五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)


魏晋南北朝 (講談社学術文庫)

 

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