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401年に沮渠蒙遜が北涼の君主の座を奪い取ったあと、北涼国は滅亡まであと一歩のがけっぷちに追い込まれます。
酒泉、涼寧の2つの郡が裏切り西涼につき、領土が張掖周辺の狭い範囲まで減ってしまい、周囲を西の西涼、東の後涼、南東の南涼と囲まれた状態になり、関中から大国・後秦が姑臧に侵攻し、後涼が後秦に服属し、後秦のプレッシャーも受ける状況になります。
このような絶体絶命のピンチの状態を沮渠蒙遜がどのように切り抜けていくのでしょうか?
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402年頃の北涼周辺と、沮渠蒙遜の方針
400年に姚碩徳率いる後秦軍が、後涼の首都・姑臧を包囲し、後涼の君主・呂隆は後秦に服属することを決めます。
しかし、姚碩徳は呂隆が姑臧に滞在することを認め、後涼という国自体は滅びず存続をします。
南涼は、禿髪利鹿弧が、弟の禿髪傉檀を司令官にし、姑臧攻略を目指し、姑臧のある武威郡エリアにしきりに侵攻します。
このような状況の中、沮渠蒙遜は以下のような方針を取ります。
①このエリアの超大国・後秦には平身低頭で入貢しておく
②自分たちの国力を考えると攻め取るとしたら、滅亡寸前の後涼国である
③南涼も姑臧攻略を狙っているが、こいつらとは状況によっては同盟を結び、戦うときは戦う。
④後涼の領土を狙うときに、気になるのが背後にある西涼だが、ここも建国したばっかりで内政が忙しいのか、君主が文系で平和主義なのか、あまり積極的に軍事行動に出そうにないので、とりあえずほっておく。
ミジンコほどの領土になってしまった北涼としては、なんとしても領土を増やさないといけないので、弱っている後涼から切り取ろうとします。
後涼は、後秦に服属しているので、後涼を攻めるということはイコール入貢をしている後秦に攻撃をかけることにならないのかと思ってしまいますが、南涼も北涼もそんなことは微塵も気にせず後涼に攻め入っているようです。
402年の河西回廊
北涼と南涼が姑臧周辺へ軍を発す
402年になると、姑臧で食糧不足で餓死者10万余という状況になり、人民が姑臧城外に勝手に脱出しようという動きが起こります。後涼君主・呂隆は民衆の行動を憎み、そいつらを生き埋めにし死体が道をふさぐほど積み上げられるという惨劇が起こります。
後涼はすでに天命を失っていたようです。
このような状況をみて、2月に沮渠蒙遜は姑臧に侵攻します。
しかし、この侵攻は後涼が南涼に援軍を求め、南涼の禿髪傉檀が武威軍に軍を進めます。沮渠蒙遜率いる北涼軍は禿髪傉檀が来る前に後涼軍に敗れて撤収していたようで、禿髪傉檀はそのへんの民衆500戸ほどをさらって退却したようです。
南涼君主・禿髪利鹿弧没し、禿髪傉檀が跡を継ぐ
402年3月に南涼の君主、禿髪利鹿弧が病に倒れ、弟の禿髪傉檀に後事を託して没します。
そのまま、禿髪傉檀が跡を継ぎ、南涼3代目を襲名、涼王を称します。
南涼は、初代・禿髪烏孤から、2代目、3代目と兄弟で君主の座を引き継いていきました。
禿髪傉檀は禿髪利鹿弧の代にも、南涼の対外戦争のほとんどで総司令官を務めており、優秀な将軍だったようです。ただ五胡十六国時代にはめずらしく、義にあつい人物だったようですが、施した情けがほぼほぼ仇になって帰ってくるというかわいそうな人でもあります。
禿髪傉檀は君主の座を継いだあと、南涼の都を楽都に遷します。
楽都は湟水流域にあり、西平と金城(蘭州)の間にあります。
南涼という国家は、基本的にはこの湟水流域を本拠としていました。
超大国・後秦、柴壁の戦いで大敗し国力消耗する
さて、402年には河西回廊の勢力を震撼させる大きな戦いがあります。
それは、後秦と北魏の華北の超大国同士の戦い、「柴壁の戦い」が行われたことです。
この戦いの詳細については、またそのうち書きたいので、ここでは詳しく書きません。
後秦は、君主・姚興の弟、姚平を司令官とした4万の兵で、北魏の平陽を攻略するため軍を発します。
これに対して北魏も君主・拓跋珪(道武帝)みずから親征し、平陽北部の柴壁で姚平を包囲、後秦君主・姚興も自ら援軍に向かうが、姚平を助けることができず、包囲された後秦軍は全滅してしまいました。
この「柴壁の戦い」の大敗で後秦と北魏のパワーバランスは大きく北魏に傾くことになります。
この超大国・後秦の大敗は、じわじわと河西回廊の勢力にも影響を与えてくるのですが、この時点ではまだまだ後秦は河西回廊勢力にとっては大国ですぐに沮渠蒙遜たちの周囲に何か変化があるわけではありません。
北涼、梁中庸も西涼に裏切る
402年12月に北涼の西郡太守を務めていた、梁中庸が西涼に寝返るという事件が発生します。
西郡というと、姑臧がある武威郡エリアとの境にある要衝で、沮渠蒙遜としても信頼する将をここの守りに置いていたのでしょう。
また西涼への裏切りがおき、沮渠蒙遜にしたらかなりダメージが大きいでしょうが、ここで沮渠蒙遜は王者の余裕を見せます。
梁中庸を信じて待つと言い、その家族を解放します。
沮渠蒙遜、まだまだうまくいきません。
403年の河西回廊【後涼の滅亡】
402年から403年にかけて、後涼の衰えは激しく、姑臧をなんとか手に入れてやろうと、北涼も南涼も続けて攻勢をかけます。
403年7月には、北涼、南涼が姑臧に同時攻撃をかけていきます。
後秦にすでに服属した状態で、国としてほぼ死に体であった後涼ですが、この北涼と南涼の同時攻撃には万事休し、君主・呂隆みずから、飾りのない白木の車を白馬に牽かせ(死を決して降参するときに用いる)、後秦軍を迎え入れ、一族ともに、長安に向かいました。
ここに後涼は滅亡しました。
後秦軍が出張ってきたからには、南涼と北涼も姑臧に手が出せません。
南涼の禿髪傉檀は
「どうぞお通りください」
と兵をよけさせます。
北涼は、後涼君主・呂隆の要請で後秦の将軍・齊難から攻められますが、沮渠蒙遜は臧莫孩を派遣しこれを防がせ、後秦軍の先鋒を破ります。
こうして、斎難と盟を結び、沮渠蒙遜はすぐに弟の沮渠挐を派遣し後秦に入貢させます。
超大国、後秦とは争わないという外交路線は継続します。(多少小競り合いはありましたが)
こうして403年に、淝水の戦い以後、河西回廊の地に覇権をうちたてた、後涼という国家は滅びました。
後涼滅亡後の河西回廊
これにより、華北西部は、
後秦
関中から隴西は後秦が支配。姑臧を中心とした河西回廊にも影響力を及ぼしている。姑臧にも3千の兵を配す。
南涼
湟水流域を支配。後秦に頭を下げつつ、姑臧を狙っている。
北涼
同じく後秦に頭を下げつつ、こちらも姑臧を狙っており、南涼、北涼の共通の敵であった後涼が滅びることにより、2国は完全に敵対国になり、姑臧の領有を争うことになる。
西涼
最西端にあり地勢的な有利さからか平和的。今のところあまり絡んできていない。
という状態になり、ここからは北涼と南涼の熾烈な争いが始まります。
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【参考文献】
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川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
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