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沮渠蒙遜が、段業、沮渠男成といった愉快な仲間たちと一緒に河西回廊の酒泉、建康周辺を領土に建国された北涼は、沮渠蒙遜の活躍もあり、後涼の首都で河西回廊の中心都市・姑臧がある武威郡との境にある西郡を攻略しました。
次いで、河西回廊西部の晋昌・敦煌と勢力下にしていきました。
その後、武威につぐ河西回廊の主要都市・張掖も獲得し、君主・段業は、張掖に遷都し、北涼の首都は張掖になります。
順調に勢力を伸ばしていっていた北涼ですが、400年に敦煌太守・李暠がそこらへんの漢人どもの推薦を受け、さくっと独立してしまいます。
しかも敦煌を中心とした河西回廊西部が李暠になびき、北涼の領土は酒泉、張掖、西郡とかなり狭まってしまいます。
そのような、北涼国が厳しい状態の中、沮渠蒙遜はある決断をします。
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400年~401年の西秦と後涼の動き
400年~401年にかけては、北涼以外にも情勢が大きく動きます。
まず400年に、河西回廊と、長安のある関中エリアとの間、隴西周辺を領土としていた西秦が後秦によって滅ぼされます。君主の乞伏乾帰は後秦に降伏しますが、殺されることなく元の隴西エリアに戻ることを許されます。このあとは後秦の尖兵として動きます。
後涼では、401年に君主・呂纂が一族の呂超と呂隆によって殺され、呂隆が君主の座につきます。内ゲバ国家・後涼のぶれない路線はさすがです。
段業、沮渠蒙遜を煙たがる
さて、そんな隴西、河西回廊の混乱ぶりに北涼も負けていられません。
401年4月、北涼君主・段業は沮渠蒙遜の才能を恐れ、遠ざけようとします。
北涼建国以来、西郡攻略からの勢力拡大や、後涼や西涼からの攻撃への対処など、北涼の立ち回りは基本沮渠蒙遜の知略や行動によるところが大きい状態でした。
段業はあからさまに、沮渠蒙遜の言うことを聞かないと失敗し、言うこと聞くと成功を収めています。
そんな沮渠蒙遜が近くにいると、段業としては、いつ取って代わられるか心配でたまらなかったでしょう。
張掖太守だった沮渠蒙遜を臨池太守にし、代わりに馬権という人物を張掖太守に任命しました。
それに対して、沮渠蒙遜も行動にうつります。馬権への処置が沮渠蒙遜の華麗なる魔法のはじまりでした。
沮渠蒙遜、馬権を段業に誅殺させる
馬権という人物は、武略もあって優秀な人物であり、段業から重要視されていたようです。
ただ、沮渠蒙遜のことは日頃から軽侮していたそうです。
沮渠蒙遜は、謀略を発動し、段業に言います。
「今、天下には心配することなどないですが、私が思うに、馬権のみが心配の種ですよ。」
これを聞いた段業は馬権を誅殺してしまいます。
え?沮渠蒙遜を遠ざけようと、馬権を代わりに派遣したのに、沮渠蒙遜の諫言を聞いてあっさり馬権を誅殺しちゃうの?と思いました。
段業はやはり馬鹿なのか、遠ざけたいけど今までの功績から沮渠蒙遜の言葉は正しいと思っていたのか、とりあえず沮渠蒙遜はそんな段業をなかばあやつる形で馬権を始末しました。
沮渠蒙遜の口から紡ぎ出る言葉はやはり魔法なのか?と思わせる出来事です。
沮渠蒙遜、沮渠男成を誘い、段業を廃しようとする
沮渠蒙遜は馬権を始末することに成功しますが、段業から煙たがれていることは変わりません。
段業は以前から、沮渠蒙遜の献策を聞かずに大怪我をすることがよくありました。
沮渠蒙遜は段業のそのような行動を冷静に見つめ、そのうちなんとかしたいとは思っていたでしょう。
そもそもただの祭り上げられ野郎が調子に乗りやがって
くらいは思っていたかもしれません。
そこで、沮渠蒙遜は、一緒に北涼を立ち上げた従兄の沮渠男成に相談します。
「段業は物事がわからない愚か者だ。乱世を渡る才能はなく、讒言を聞き、佞臣を愛している。自分で物事を見極め定めることができない人間だ。気をつけないといけなかったのは、索嗣と馬権だったが、今や皆死んだ。我は段業を除き兄(沮渠男成)を君主にしようと思うがいかがか?」
北涼を建国したときと同じく沮渠男成とのコンビで今度は段業を廃し、北涼を自分たちのものにしようとした沮渠蒙遜でしたが、沮渠男成は思いもよらず断ります。
「段業のやつは、元々故郷を離れてこの地にやってきている孤独な彷徨い人であったが、我らが立ててやったのだ。段業と我ら兄弟(蒙遜と男成)との関係は、いまだ魚が水を求めるのと一緒だ。人々は、我々は親しい仲と思っている。その段業に背くことはよくないぞ。」
これによって沮渠男成との謀反は実施できませんでした。
沮渠蒙遜はすでに段業から煙たがられているので、とりあえず油断させるために主要地から移動しようと西安の太守にしてくれと段業に申し出ました。段業も沮渠蒙遜が良からぬことを考えているのではないかと疑い恐れていたので、この沮渠蒙遜のこの申し出を受け入れます。
沮渠蒙遜の華麗で冷酷なクーデター
沮渠男成に段業廃立を断られた沮渠蒙遜は、ここから、これぞ沮渠蒙遜という圧巻の謀略を進めていきます。
沮渠男成を陥れる
沮渠蒙遜は、沮渠男成と蘭門山で一緒に祭祀を行おうという約束をしました。
沮渠蒙遜はそれと同時に、司馬の許咸を密かに段業の元に遣わしこうささやきます。
「沮渠男成は、休暇の日に反乱を企てているようですぞ。もし、沮渠男成が蘭門山で祭祀をしたいと言ってきたら、その兆候ありと見て間違いないでしょう。」
しばらくして、果たしてそのとおり沮渠男成が休暇のときに蘭門山で祭祀を行いたいと申し出て来たので、段業は沮渠男成を捕らえ処刑しようとします。
そりゃあまあ、沮渠蒙遜が誘っているので沮渠男成が祭祀しようと言い出すのは、当たり前です。
捕らえられた沮渠男成は、沮渠蒙遜に謀られたことをさとり、段業にこう訴えます。
「沮渠蒙遜のやつは、以前私に一緒に謀反を起こそうと誘って来ました。私はもちろん断りましたが、沮渠蒙遜は私の従弟なのでそのことを隠し公言しませんでした。今やつが私を陥れようとしているのは、私が生きていると部衆たちが段王(段業)への反乱に参加しないと恐れているからでしょう。ですので、先に私と山で祭祀を行うことを約束して、私が反乱を起こそうしていることを捏造しようとしたのです。沮渠蒙遜の狙いは王(段業)に私を殺させることですぞ。
そこでこうしてはいかがでしょう。王が私を処刑したと偽って広め、私の罪を明らかにすれば、沮渠蒙遜は必ずや、その王の行いを糾弾し反乱を起こすはずです。その時点で私は王命を奉り沮渠蒙遜を討ってみせましょう。必ずや勝てるはずです。」
沮渠男成の理路整然とした申し開きで、はたからみるとどうみても沮渠蒙遜のほうが黒ですが、段業は聞く耳もたず沮渠男成を処刑してしまいます。
段業は沮渠蒙遜を排除したいとおもっていたでしょうが、結局は沮渠蒙遜の言を信じてしまうようです。このへんが段業の限界であったでしょうし、沮渠蒙遜はそこを見通しながらこの謀略を計画したのでしょう。
沮渠男成の処刑をダシに部衆を扇動し反乱を起こす
さて、沮渠男成が処刑されたと聞いた沮渠蒙遜は、我が計成れりと、部衆たちに哭きながら訴えます。
「沮渠男成は段王(段業)に忠誠を誓っていた。それなのに段王は理由もなく罪をでっち上げ、沮渠男成を殺してしまった。諸君、この仇を討たずにおくべきか!?そして聞け。我らがはじめに段王を擁立したのは、部衆や民衆を安んずるためではなかったのか?それがどうだ?今や領内は乱れまくっている。これは段王が政治が悪いからではないのか?」
これを聞いた部衆は、沮渠男成が部衆の心をつかんでいたこともあり、皆哭きながら段業討伐に奮い立ちました。
まさに謀略と扇動の沮渠蒙遜ここにあり!という見事さです。
沮渠蒙遜率いる段業討伐軍(反乱軍)は張掖郡の氐池に至るころには1万人を超え、鎮軍将軍の臧莫孩も配下の兵を率いて合流してきました。
その他、羌や胡の多くが沮渠蒙遜側に応じてきました。
それらを吸収しながら沮渠蒙遜軍は侯塢というところまで進軍してきました。
沮渠蒙遜率いる反乱軍が迫ってきていることを知った段業は、以前疑いをかけ投獄しておいた右将軍の田昴を赦免し、武衛将軍の梁中庸とともに、沮渠蒙遜討伐に向かわせようとします。
このとき、王豊孫という将軍が段業に、
「あいつらの一族は過去にもたくさん反乱起こしているので信じないほうがよいですぞ。」
と、進言してきたのを、
「わしは昔からずっとあやつのことなんか信じておらんわ。ただ、沮渠蒙遜を討てるのは田昴しかいないではないか。」
とつっぱねます。
信じるべき人間と、信じちゃ駄目な人間を逆にしてしまう、
これぞまさに段業クオリティーです。
さて、田昴は侯塢まで来ると五百騎を率いてあっさりと沮渠蒙遜に寝返ります。そりゃまあそうでしょうよ。
そんなこんだで、段業軍は壊滅、梁中庸将軍も沮渠蒙遜に降伏しました。
張掖陥落、沮渠蒙遜のクーデター鮮やかに成功する
401年5月になると、沮渠蒙遜の軍は段業がいる北涼の首都・張掖に迫ります。ここで田昴の兄子・田承愛が城内で呼応し張掖は陥落し、段業の周りの人間は散り散りに逃げていきました。
捕らえられた段業は沮渠蒙遜にこう言います。
「わしは、一人寂しくこの地に単身赴任して来ていたのを、君たちの家族(沮渠一族)が推薦してくれたので、王になったのに過ぎないのだよ。頼む、なんとか命だけでも助けてくれないか?東に帰って残してきた妻子にあうことだけが今のわしの望みなのだよ。」
なんとなく段業がかわいそうになってきました。
かわいそうな段業、それを聞いた沮渠蒙遜は
さっくりと段業を処刑しました。
沮渠蒙遜、仕事は冷酷に完遂します。
クーデターの流れと沮渠蒙遜の権力簒奪
沮渠蒙遜クーデターの動きをまとめると、以下のようになります。
①沮渠蒙遜の代わりに張掖太守に任命された馬権を謀殺
(これにより段業のまわりの要注意人物を排除)
②沮渠男成を誘い、一緒に段業を排除しようとしたが、沮渠男成に断られる→沮渠男成を切り捨て、謀略のダシに使うことにする。
③祭祀の仕込みを行い、沮渠男成が反乱を企てていると段業に嘘の密告をし、段業に沮渠男成を誅殺させる。
④沮渠男成が段業に処刑されたことをダシに使い、部衆を扇動し、段業討伐の軍をあげる
⑤段業を殺し、自分が北涼の君主となる。
一緒に北涼を立ち上げた沮渠男成と段業という愉快な仲間たちを、これぞ謀略という内容で陥れ一挙に屠ることに成功し、君主の座を奪取したこの流れは沮渠蒙遜という人物を鮮やかに現しています。
(沮渠男成はかなりかわいそうですが。)
さて、北涼建国から4年に渡る段業の時代は終わりをつげ、これで名実ともに北涼は沮渠蒙遜のものになりました。
しかし対外的な状況は最悪に近く、嵐の中の船出となりました。
この嵐の中を沮渠蒙遜がその智略でどのように航海していくか今後も楽しみです。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
来村多加史『万里の長城 攻防三千年史』 (講談社現代新書、2003年7月)
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