こんにちは。
前回、401年~410年の華北東部を書きました。
後燕が北魏の攻撃により分裂し、北は後燕が滅び、北燕に取って代わられ、南は慕容徳が山東半島に南燕を建国しますが、東晋の劉裕に攻められ滅亡してしまいます。
北燕は小国ながら領土をキープしつつ、この時代をしばらく生き残ります。
華北東部は、410年が終わる頃には、
北魏が河北一帯を締め、遼西あたりを北燕が領土とし、山東は東晋が支配する状況でした。
それでは、華北西部はどのようになっていたのでしょうか?
以下、五胡十六国時代後期に登場するプレイヤー(国)たちです。
【関東エリア】
西燕、後燕、南燕、北燕、翟魏
【北の塞外エリア】
夏、北魏
【関中エリア】
前秦、後秦
【西の果てエリア】
西秦、後涼、南涼、北涼、西涼、後仇池、吐谷渾
【その他】
東晋、後蜀(譙蜀)
※滅びた国は塗りつぶしています。
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401年~410年
華北西部
後秦の勢力拡大
後秦は、393年に姚萇が死去したあと、姚興が跡を継ぎ、関中の覇権を前秦と争い勝利しました。
その後、後秦は姚興をはじめ、将軍・姚碩徳、軍師の尹緯など優秀な人物たちにより、勢力を拡大していきます。
390年代にはオルドスを北魏から奪い、洛陽や漢水・淮水以北などの河南エリアも一部獲得しました。
400年には、姚碩徳が隴西に侵攻し、西秦を滅ぼしました。
401年に姚碩徳は後涼の都姑臧を攻め、後涼を降伏させます。河西も後涼の勢力圏に入れていきます。
北魏との激突・柴壁の戦い
402年になると後秦領土の東部で北魏と対立していきます。
後秦は、姚興の弟の姚平を派遣し北魏の平陽を攻撃させました。
これに対して、北魏は道武帝(拓跋珪)自ら兵を率いて親征してきます。
そして、平陽の南の柴壁で姚平の軍を包囲します。姚興も自ら兵を率い援軍に向かいましたが間に合わず、姚平率いる後秦軍は北魏軍に全滅させられてしまいました。
これが「柴壁の戦い」で、この戦いにより後秦と北魏との力関係は逆転したと言われます。
後秦の河西と河南の動き
山西エリアで北魏に大敗した後秦ですが、河西と河南ではまだ勢力を拡大していました。
403年8月に、後涼は南涼と北涼に挟み撃ちにされボロボロの死に体になったので、姑臧の街は後秦が直接統治するようになりました。このとき、後涼の君主・呂隆は長安に亡命し、後涼はこのとき滅亡しました。このあたりの河西回廊エリアの話はまたあとで書きます。
403年には東晋が桓玄によって簒奪されたので、この隙を突き、淮河の北を獲得していきます。
405年には姚碩徳が秦嶺山脈を超え、後仇池領に侵攻、後仇池は後秦に降伏します。(ただし国としては滅びてません)
このあたりまでが、後秦の全盛期であったでしょう。
後秦の勢力縮小
北魏に「柴壁の戦い」で敗れたあとも、東部方面と西部方面では勢力を拡大していた後秦ですが、405年の末ころから縮小傾向に入ります。
まず405年末、桓玄を討ち東晋を復活させ、東晋の実権を握った英雄・劉裕が失った土地の回復に動き出します。
劉裕は後秦に対して、漢水流域の12郡の割譲を求め、劉裕と対決することを恐れた後秦はこの申し出を受けてしまいます。
また、406年に河西回廊では服属下の南涼が姑臧駐屯を求め、後秦はこれも認めます。
後秦は河西回廊への影響力も失ってしまいます。
オルドスで赫連勃勃が夏を建国
後秦が東西で領土を減らしているとき、オルドスでも異変が起こります。
後秦と北魏は407年には関係を改善させるのですが、これに怒ったのが、後秦の安北将軍・五原公としてオルドスの朔方に駐屯していた超絶イケメンバーサーカ赫連勃勃でした。
赫連勃勃は、オルドスに割拠し、北魏に滅ぼされた鉄佛部・劉衛辰の息子で、北魏を不倶戴天の敵と見なしていました。
その北魏と関係修復するのだというのですから、赫連勃勃としてはやってらんねー、というわけです。407年6月に後秦の高平の町を襲って独立し国号を大夏としました。
これが夏の建国です。
この夏の独立により、後秦はオルドスから陝西北部に渡るエリアを失ってしまいます。
西秦の復活
409年になると、400年に後秦に降伏して、以後その武将として後秦の勢力拡大に貢献していた、西秦の乞伏乾帰も度堅山で秦王を称し再独立してしまいます。
西秦の復活です。
西秦は410年に苑川に都を遷し、後秦領の略陽・南安・隴西を獲得していきます。
このように後秦はあらゆる方面で領土を減らしていきました。
北魏、道武帝の暗殺
409年北魏では驚天動地の出来事が起こります。
386年に北魏を建国して以来、軍事・政治・人事のすべてにおいて、その天才的センスを発揮し、北魏を華北の大国まで育てた道武帝(拓跋珪)が409年7月に暗殺されてしまったのです。
道武帝は晩年には、その秘めたる(?)残虐性が表に出まくって来たようで、自分の近くに仕える人間を殺しまくるようになってしまったようです。
そして、息子の拓跋紹(こいつも素行が相当悪い問題児だったようです。)によって殺されてしまいます。
この拓跋紹は、兄の拓跋嗣によって殺され、拓跋嗣が即位しました。(明元帝)
益州方面の動き
華北が騒がしい中、東晋領であった益州でも、何やら動きがあります。
405年に益州の軍は、江陵攻撃の命令を受けますが、この命令を嫌った軍が反乱を起こし、譙縦を指導者としてなんと益州の中心・成都に攻め込みました。
譙縦は、成都王を自称し、
ここに後蜀(譙蜀とも言う)が建国されました。
この後蜀(譙蜀)は、存在すら忘れられてしまう傾向が強いくせに、まあまあ粘り、407年に後秦に使者を送り、後秦の藩賊になります。
408年には東晋から攻撃を受けますが、後秦の力を借り、撃退しました。
とりあえず410年までには滅びません。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
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