毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程⑪ ~陶晴賢の下剋上のすきに安芸と備後に勢力拡大~

歴史

家中の統制(井上一族の討滅)

元春、隆景を吉川家・尼子家に養子に入れ両家を乗っ取り、安芸国内の勢力を一気に拡大した元就ですが、その家中の統制も一つの課題となっていました。

直接のターゲットは、重臣の井上氏でした。

井上氏は元就が家督を相続するときに手を貸した恩もあり、その恩を着せ毛利家中の中でも好き勝手に振る舞ってきました。(少なくとも元就はそう思っていた)

そこで元就は、これまでの恨みを晴らさんとばかりに、天文19年(1550年)7月12日から7月13日にかけて、当主の井上元兼をはじめ、井上一族三十数人のことごとくを殺害していきます。

この後、福原貞俊以下238名の家臣が連署起請文を発行し、今回の井上一族抹殺を承認したとともに、毛利氏が家中を支配していくことは「本望」であると誓いました。これにより元就は家中を統制する権利を手に入れました。

行政機構・軍事機構の整備

家中の統制に成功した元就は、拡張した自分の勢力に見合った改革を進めていきます。

まずは、行政機構の整備です。

赤川元保・国司元相・粟屋元親・児玉就忠・桂元忠の5人を「五人奉行」に任命し、領地の打ち渡しや、検地の実務を担当させました。

そして、軍事制度の整備も行います。

家臣たちの貫高によって軍事動員数を決める制度を整え、軍事動員体制の安定化が進みます。さらに「軍法」を定め、大将の命令に従って軍が動く体制を作っていきます。

陶晴賢の謀反

毛利元就が毛利家と安芸周辺の体制固めを行っている間に、防長では、陶晴賢の大内義隆に対するクーデターが勃発します。

天文21年(1551年)8月に陶晴賢は挙兵し、9月1日には大内義隆は大寧寺で自刃して果てます。

芸備への勢力拡大

陶晴賢が謀反を起こしたとき、元就は安芸銀山城を占拠する動きを見せます。

そして、大内義隆が自刃したとの情報を得ると、安芸の頭崎城の平賀隆保を滅ぼします。その後、平賀広相に平賀家を継がせます。これにより、平賀広相は元就に感謝し、元就の下につきます。

備後の国でも、陶晴賢のクーデター後、尼子に走る国人領主が多く出てきました。

陶晴賢はクーデター後の処理で手が回らなかったので、元就に大内方を率いさせ尼子の勢力を排除しようとしました。

元就はこれを機に天文21年(1552年)7月に備後に攻め入り、宮光寄の志川滝山城を攻め落とします。

天文22年(1553年)4月には旗返城の江田隆連や甲山城の山内隆通らが尼子方につき尼子軍を引き入れたので、元就はこれを撃退し旗返城を落とします。

山内氏も毛利に降伏し服属していくことになります。

これにより、備後国内での尼子の影響力は消滅し、毛利氏の影響力が大きくなります。

この時点で毛利の勢力は安芸・備後両国にまたがるようになります。2カ国の盟主ということになれば一国人領主の立場を超えたものです。

そして、陶晴賢も大きくなってきた毛利氏に警戒心を抱くようになり、その関係性が悪化してきます。

このことにより歴史の流れは、毛利元就を戦国時代のスターへと引き上げ、中国地方の王への道を開く、「防芸引分」→「厳島の合戦」へと進んでいきます。

 

 

 

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