五胡十六国時代 後期(淝水の戦い後)の流れを簡単に見てみる 「時代はまさにカオスだ(´Д`)」 ③386年~390年 激動の80年代

五胡十六国の流れ

こんにちは。

383年の淝水の戦いのあと、前秦に服属した各部族たちは、前秦が揺れているのを見ると、独立の動きを見せていきます。

383年~385年にかけて、

後燕、西燕、後秦、西秦、後仇池、後涼、代(北魏)などが建国、もしくは自立の動きを見せていきます。

そして前秦の英主・苻堅様は385年8月、後秦の姚萇の手によって、あえなく最後を迎えてしまいます。

前秦が関中の地方政権になってしまうとともに、各エリアに独立した勢力が各々勢力拡大をはかっていき、五胡十六国時代はドロドロのグチャグチャの乱世へと戻っていきます。

383年淝水の戦い後から385年頃までの、各勢力独立

今回は386年以降の動きを見ていきます。

以下、五胡十六国時代後期に登場するプレイヤー(国)たちです。

【関東エリア】
西燕、後燕、南燕、北燕、
翟魏

【北の塞外エリア】
夏、北魏

【関中エリア】
前秦、後秦

【西の果てエリア】
西秦、後涼、南涼、北涼、西涼、後仇池、吐谷渾

【その他】
東晋、後蜀(譙蜀)

※まだいない国は網掛けしています。

五胡十六国時代のおおまかな流れはこちら(前期中心)

五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら


五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)

386年~390年

関東エリア

関東では、慕容垂の後燕が紆余曲折ありながら羽ばたいていきます。翟遼は地味ながらがんばります。そして西から西燕の慕容たちが関東に戻ってきます。

後燕、翟魏

関東エリアでは、慕容垂の後燕が、385年までに前秦の苻丕との激闘の末、鄴を手に入れ、同時進行で進めていた、河北から遼東までも支配下に入れていき、強国への道を歩み始めました。悲運の名将がようやく自分の力を存分に発揮するときがやってきました。

慕容暐も苻堅もこの世からいなくなった386年1月、慕容垂は中山で皇帝に即位しました。

後燕が勢力を伸ばしているあいだ、慕容垂と袂を分けた丁零の翟遼は河南方面で活動し東晋から領土を奪ったりします。後燕とついたり離れたりしますが、その後388年に翟遼は即位し、

ここに翟魏が建国されました。

翟魏はこのあとも、後燕についたり叛いたりしながら、河南周辺でしばらく存続します。

西燕が関中から関東へ移籍

関中で建国して前秦から長安を奪い本拠地にしていた西燕は、配下の鮮卑が東への帰還を求めますが、皇帝・慕容沖はそれを拒否します。このことにより、386年1月に慕容沖が殺されます。そのあと、5ヶ月の間に段随、慕容凱、慕容瑤、慕容忠と指導者が次々と殺されるような大混乱が起こります。

その最中の386年3月に西燕の勢力は長安から并州の聞喜(山西省聞喜県)に移りました。

そして、386年6月に慕容永が皇帝になり、9月に長子に移り、山西エリアの国となりました。

西燕は10月に晋陽の苻丕を破ったり、後燕に称蕃したりしましたが、そのうち後燕と対立するようになります。

北の塞外エリア

代の復活から北魏へ

かつての代王・拓跋什翼犍の孫である拓跋珪は、前秦によって代が滅亡したときに母とともに賀蘭部の元に逃れ、その後、劉庫仁の元に逃れます。淝水の戦いのあとに拓跋珪は386年1月に代王を名乗り、4月に魏王になります。

これが北魏の建国です。

北魏は、オルドスに割拠した宿敵鉄佛部の劉衛辰(のちに出てくる夏の建国者・赫連勃勃の父)や、劉庫仁の息子劉顕などに圧力をかけられてしまいますが、北燕と手を組み387年7月に劉顕を破るなどし勢力を拡大していきます。

関中エリア

関中エリアでは、長安を占領した西燕が幕下の鮮卑たちのホームシック(東へ戻りたいという希望)に推され、君主が殺されつつ東にカムバックしていきます。そして残った前秦と後秦が関中の覇権をかけて激闘を繰り広げます。

前秦

苻堅様が死んだあと、鄴から平陽に移っていた苻丕が即位し、前秦の皇帝になります。

苻丕は、長安から退去し、関東に戻ろうとしていた西燕から

「東に帰りたいので、領土を通してくれ」

という申し出を拒否り、それがもとで386年10月に西燕と戦うことになり、負けてしまいます。

苻丕は河南の東垣に逃げましたが、そこを東晋軍に攻撃され戦死してしまいます。

鄴で慕容垂相手に1年耐えた苻丕でしたがあえない最後を迎えてしまいました。

前秦の君主の座は、甘粛省東部で後秦と戦っていた苻堅の族孫にあたる苻登が386年11月に南安で継ぎ即位しました。

苻登は、苻堅様の神主(仏教で言う位牌みたいなものか)を戦闘時に立てて戦い、「苻堅様の怨みはらさでおくべきか~」と後秦軍とバチバチの戦闘を繰り広げます。そして一時は長安に迫るほどの勢いを見せます。

後秦

姚萇は、西燕の長安を捨て東に帰っていったのを見て、空いていた長安の街に入ることに成功します。棚ぼた的な展開ですが、姚萇は一応前秦と西燕の長安攻防戦のあと、長安に権力の空白ができることを予測していたようなのです。

姚萇は、長安入城後、長安を常安と改名し、皇帝に即位します。

その後前述、前秦の苻登と激しい戦いを繰り広げ、苻堅の位牌を押立て向かってくる前秦のゾンビがごとき軍の前に、一時は安定と常安を2都市を残すだけになってしまいます。しかし389年に「大界の戦い」で後秦軍は前秦軍を撃破し、以後後秦が優勢になります。しかしまだしばらくは前秦との激闘は続きます。

西の果てエリア

80年代にはこのエリアはそこまで激しい動きはありませんが、いろいろな火種が生まれています。

西秦

385年9月に乞伏国仁が勇士城で建国しますが、西秦は前秦には従属するという態度でした。

場所的に、前秦、後秦、後涼が周辺にいましので、なかなか勢力が拡大できる状態ではありませんでした。

388年に6月乞伏国仁が死去し、弟の乞伏乾帰が跡を継ぎます。

9月には勇士城のすぐ近くの金城(甘粛省蘭州市西固区)に遷都します。

西秦は、前秦と組みながら後秦とは対立し、周辺部族を服属させていきます。吐谷渾からも朝貢を受けるなどします。

後涼

呂光は、西域から帰ってきたあと、淝水の戦いでの前秦の敗北などを知り姑臧で385年に自立します。

386年9月に苻堅の死を知り、10月に太安と改元し、酒泉公を自称します。

これが後涼の建国になります。

387年12月に前涼のかつての君主・張天錫の息子、張大豫を破り、涼州の大部分を制圧していきます。しかし、涼州の漢族の反抗を受けたりします。

西秦とも388年以降、衝突が増えます。

後仇池

385年11月に楊定が建国した後仇池は、東晋に称蕃します。

この時期は後仇池のくせにイケイケで、前秦が衰えたため、渭水上流の秦州に進出したりしています。

その他

東晋

東晋では、385年に淝水の戦いを指導した謝安が死去し、388年には謝玄と謝石という重要な人物もあいついで亡くなります。

また黄河流域では、翟魏に黎陽、泰山、高平、譙などを取られます。

そして、謝安亡き後実権を握った司馬道子が東晋を混乱に導いていきます。

390年頃の勢力図

時代は90年代へ

こうして、激動の80年代が終わり、時代は90年代に入っていきます。

90年代もそのまま激動です。

そして、90年代はずっと塞外にいた拓跋部というバーサーカーどもがとうとう塞を超えて南進をはじめていきます。その破壊力たるや凄まじいよ。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』

 

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