中国史上最大級の戦乱の時代、五胡十六国時代。その各国の攻防を描く ~東北からの疾風、前燕の中原侵攻~⑤ 慕容皝が即位するも兄弟間の争いが起こる 

前燕

こんにちは。

前回、慕容廆の死まで書きました。今回はあとを継いだ慕容皝とその即位時の兄弟による反乱を書きます。

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遼西・遼東の勢力図

慕容廆没時の中原の状況と慕容廆の実績

慕容部の指導者、慕容廆が49年の在位のあと、333年に没しました。

333年というと、中原では華北を制した後趙の石勒も没した年でもあります。後趙も石勒死後、その息子の石弘が即位しますが、石勒の甥で後趙軍事上のトップであった石虎によって殺され簒奪されてしまいます。

慕容廆は、周辺民族との戦いに勝利を重ねていき、また、中原からの流民の受け入れ、そこからの人材の抜擢、官僚機構の整備などの善政を行い、慕容部の勢力を遼西・遼東エリアのトップクラスまでもっていきますが、遼西・遼東エリアでは、段部、宇文部、高句麗などの各勢力がまだまだ侮りがたい力を持っていました。

そのような状況の中で、慕容皝は即位します。

中国全体の勢力図。前燕の領域はまだ他の周辺勢力も存在している状態

慕容皝

慕容皝は、慕容廆の第3子でしたが、長兄の慕容翰が庶子であったことから、慕容廆の後継は慕容皝と定められていました。

慕容皝は、身長七尺八寸あったと言いますから、190センチを超える身長で、勇ましくて強く、さらに経学をうやまい、天文の知識もあったといいます。文武両道の人物だったのでしょう。

慕容一族の身長

それにしても慕容部の一族はみんな背が高かったようです。軒並み190センチ以上あり、中でも慕容皝の息子の一人、慕容格は、八尺七寸と210センチオーバーで、バスケットボールのNBAのセンター並の身長があったと言われています。一族の多くが恵まれた体格と優れた武の才能を持っていたのでしょう。

慕容皝の即位と兄弟間の争い

慕容皝は慕容廆在世時からその武将として多くの戦いに参加して手柄をたてています。

慕容廆が没すると慕容皝はそのあとを継いで即位します。

しかし即位したあと、慕容部は兄弟同士の戦いがはじまり数年間の内乱状態になってしまうのです。

慕容皝の兄弟には、慕容翰や慕容仁など武に優れた人物が多くいました。慕容皝はその優れた兄弟たちを警戒します。

兄弟に優れた人物が多いと、日本の戦国時代の毛利や島津などを連想して、その勢力にとっては良いことだと我々は思ってしまいがちですが、当時の鮮卑などの遊牧民族の流れをくむ民族ではちがいます。

先代が死んだ後、後を継ぐのは一番力がある人物なのです。これによって、兄弟間の血みどろの争いがほぼ毎回起こり勝ったものが跡を継ぐのです。

五胡十六国時代では、もはやこの時代の名物と言ってよいほど、建国者が死んだあとの後継者争いが起こります。そして、そのまま国力を弱めて滅ぶということがパターンでした。

慕容皝即位後もこの兄弟間の争いが起こり、慕容部はしばらくそのことで発展が停滞します。それどころか慕容部危急存亡の秋を迎えてしまいます。

兄弟間の争いに周辺の勢力まで加わって来るからです。

そのあたりの詳しい内容は次回書きます。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 


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