毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程② ~元就が家督を継ぐまで~

歴史

甥、幸松丸の後見としての元就の動き

元就が幸松丸の後見となったころの安芸・備後は、多くの国人領主がそれぞれの所領を治める状態でした。国人領主は、自分の所有する土地は完全に自治しており、服属する大勢力が戦をするときには自らの兵力を率いて参戦していました。毛利氏もその国人領主たちの一つとして、隣国を治める大内氏と尼子氏という巨大勢力の圧力に左右されながら、生き残りをはかる立場でした。

幸松丸後見時の安芸の勢力図

毛利家の家督を継いだ幸松丸が幼いということを見越して、銀山城の武田信繁が、山県郡にある有田城を攻めてきます。有田城はもともと武田氏の城でしたが、元就の兄の興元が存命中のときに攻略し、大朝の国人領主吉川元経に与えていました。

この攻撃に対して、元就は永正14年(1517年)11月、有田城に籠城する吉川元経とともに反撃をし、武田元繁が流れ矢に当たったところを討ち取り、武田軍を撃退しました。元就はこの戦いが初陣で、この勝利で大いに声望を高めました。

このあと、元就は大永2年(1522年)には同じ山県郡の壬生城(広島県山県郡北広島町)を落とし、毛利氏の勢力を山県郡まで広げました。

武田元繁撃退後の安芸勢力図

大内氏から尼子氏へ鞍替えする

このときまで、毛利氏は大内方として動いていました。しかし大内義興が安芸の安定化を計り、安芸の国人領主の締め付けを強化していくと、安芸の国人領主たちは反発をはじめます。ここで尼子経久が安芸の国人領主の切り崩しを図ってきます。最近目覚ましい活躍をしていた毛利元就の元にも、尼子経久の調略の手がのびてきます。当時の状況は大内氏が不利になっていたので、元就は尼子氏の要請に応え尼子方につきます。そして大内方の城である東西条の鏡山城の攻撃に尼子方として参加します。このとき幸松丸も9歳で出陣しますが、実際の指揮はもちろん元就がします。このときの城攻めは攻め方の激しい攻めにも負けず守備方もよく守っていましたが、元就が守備方の一人を調略し、開城までこぎつけました。のちに元就の代名詞ともなる、謀略・智謀がこのときにすでに発揮されていたのですね。

この戦いにより、安芸の国人領主は尼子方に次々とつくことになります。

幸松丸の死と元就の家督相続

鏡山城の攻略戦から帰還した元就でしたが、帰還直後の7月15日に幸松丸が急死してしまいます。

一説によると、鏡山城の攻略戦のときに、落城後の首実検のときに、生首を怖がる9歳の幸松丸に尼子経久が無理やり首実検をさせ、それがショックで体をこわしたという説もあります。

幸松丸亡きあとの毛利家をどうするかは、重臣間で意見が割れ、尼子氏から養子を入れる意見と、元就に家督を継がせる意見の2つが出ました。しかし結局は志道広良、福原広俊、桂元澄などの意見が通り、元就が毛利家を継ぐことになりました。

こうして、ようやく毛利元就が毛利家の当主として動きはじめることになりました。

しかし、毛利家や元就の周辺には変わらず様々な問題が残っていました。

 

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