五胡十六国時代の覇権国家、後趙を描く③ 石勒の華北統一

中国史

後趙の建国

石勒が前趙(漢)の部将として、華北東部で勢力を拡大していたころ、前趙内部では、318年7月に劉聡が死亡し、劉粲があとを継ぎ即位します。しかし8月に外戚の靳準が劉粲以下の劉氏をクーデターにより滅ぼし漢天王を自称します。

この政変に対し、長安にいた劉曜と、東方の石勒の両者が前趙の首都平陽に向かいます。前趙(漢)の朝臣たちは劉曜を推し、劉曜は長安で即位します。その後平陽に攻め込み靳準を滅ぼします。石勒は平陽の東南の襄陽(山西省)で内乱の首謀者を斬りますが、劉曜の下につくことをよしとせず、東方に引き返します。そして、319年11月に襄国で大単于・趙王を名乗り即位します。

こうして後趙が建国されます。

ちなみに、劉曜もこのタイミングで「漢」から「趙」に国名を変え「前趙」がスタートします。

前趙、後趙の「前」「後」は後世の人がわかりやすいようにつけたものなので、当時は「趙」という国が華北の東西に同時に存在したのですね。

石勒の内政

石勒は文字が読めなく、武の人というイメージが強いのですが、内政にも力を入れています。

●官僚機構の整備
●官吏任用方の制定
●漢人を集め、政治顧問団「君子営」を設立
●門臣祭酒、門生祭酒をもうけ、門臣祭酒には異民族出身者を任命して、異民族の訴訟を扱わせる。門生祭酒には漢人が任命され、漢人の規制を行い、さらに征服したがわである異民族が漢人を侮辱しないよう監視した。
●経学祭酒(儒教の古典を教える)、律学祭酒(法律)、史学祭酒などの学官や太学をもうけた
●郡ごとにも学官を置き学校制度を整えた。
●上党国志、大単于史などの歴史書の編纂

漢人を含めた人材登用と、将来の人材を見据えた教育、異民族と漢人の間の争いをなくすことにより、国力のアップをはかります。おそらく異民族と漢民族が入り乱れるようになったこの時代には両者の融和が国を保つためには大事なのだと理解していたのでしょう。

建国後の華北制圧戦

建国したあとの後趙は、北方には鮮卑が勢力を増してきていたので、そちらではなく、まず河南省・山東省の方面に進出していきます。

しかし、南方の健康に拠った東晋が、祖逖に率いられ、河南の地域の確保を狙ってきたため、後趙と東晋は一進一退の興亡を繰り広げます。その後321年に祖逖が病死したので、後趙は河南の地域の確保に成功します。

後趙は勢力を拡大していき、322年ころには、河北・河南・山東・山西・遼西のエリアを制圧します。

後趙勢力拡大期の各国勢力図

324年になると今度は前趙が河南進出を狙ってきます。これにより後趙対前趙の全面対決がはじまります。両者は洛陽周辺で激突します。前趙は皇帝の劉曜が自ら出陣してきて洛陽を包囲します。後趙も石勒自ら出陣しこれを迎え撃ちます。双方、それぞれ10万を超える軍を繰り出し、大軍同士の激突となりました。

前趙との戦いを含めた、石勒の華北制圧戦でもっとも活躍したのは、石勒の一族の石虎でした。彼が将軍として軍を率い、その軍は向かう所敵なしの強さを誇りました。

そして、この前趙との洛陽攻防戦でも、石虎の軍がその武力を発揮し、劉曜を捕らえて後趙が勝利します。

前趙の滅亡と、後趙の華北制覇

この洛陽での戦いにより、後趙は完全に前趙を凌駕し、その後、石虎が長安より逃げた前趙の太子劉煕を329年9月に上邽で殺害して前趙は滅びました。

前趙の滅ぼすことにより、山東から陝西・甘粛東部に渡る、華北のほとんどを領有することになり、華北をほぼ統一します。

後趙華北統一時

石勒は、330年2月に趙天王を称し、9月に皇帝に即位します。そして官僚機構をさらに整備していき、国力を上げていきます。このあと、高句麗や、鮮卑宇文部、前涼などが周辺の勢力が遣使してくるなど中華帝国として形を整えていきます。

333年7月に石勒は病死し、息子の石弘が即位しますが、その後、後趙でも五胡十六国名物の後継争いが起こります。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 


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