漢(前趙)の跡目争い
前趙(漢)の建国者劉淵が病により亡くなったあと、息子の劉和が跡を継ぎます。
劉和は権力を固めるため兄弟を廃そうとするのですが、弟の劉聡が逆にクーデターを起こし、劉和を殺し自分が即位をします。
劉聡の進撃→洛陽攻撃
劉聡は即位したあとすぐに、河北や山東方面の制圧に動きます。
劉淵の時代は、山西省の南部エリアの領有するまで勢力を広げていた前趙(漢)ですが、ここで一気に華北の中心エリアに進出していきます。
河南省の各地を攻略していき、西晋の首都洛陽に迫っていきます。
西晋のほうでは、前趙による洛陽攻撃の前から、懐帝と東海王司馬越が反目しだし、この国難に備える体制がまったく整いません。この期に及んでという感じですが、滅びゆく国というのはいつもこのような感じなのでしょう。
311年4月には、東海王司馬越とともに洛陽を出た人々が、その後死亡した司馬越の棺をもって、貴族の王衍に率いられ河南省鹿邑県西南の寧平城まで来たときに、石勒の軍に攻められ、殲滅させられました。西晋の貴族王侯など10万人が殺害されたと言います。
311年6月に劉聡は、石勒、王弥、劉淵の族子の劉曜などに命じて洛陽を攻撃させます。当時の前趙の武将のエース級を使っての攻撃です。そして洛陽は落城し、街は灰燼に帰し、王侯以下3万人の人々が殺害されました。懐帝も捕虜にになり、前趙の首都平陽に送られます。そして、313年平陽で殺されます。この一連の、前趙などの異民族政権の攻撃による西晋滅亡の動きを「永嘉の乱」と呼びます。
西晋の滅亡
その後、劉曜らが長安を攻め落としますが、すぐに西晋が奪還します。ここで、愍帝が帝位に就きますが316年に劉曜が再度長安を落とします。愍帝や西晋の家臣はみな捕虜とされ、ここで西晋は滅亡します。このときの漢(前趙)の領土は、洛陽~長安のある関中と建国以来の土地、山西省南部に至っていました。
このときが漢(前趙)の最盛期と言ってもよいでしょう。しかし、最盛期イコール「終わりの始まり」ということで、漢(前趙)内の矛盾はじわじわと広がっていました。
また、劉淵、劉聡の元、各地での経略にあたっていた、方面軍司令官たちが、独立の動きをはじめてきます。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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