石勒 五胡十六国時代の黒き英雄王 第二部「漢の将軍として戦う」② 309年 石勒、参謀・張賓をゲット!

石勒

こんにちは。

石勒は、劉淵率いる漢に帰順したあと、すぐ将軍として抜擢され、主に関東(河北エリア)の攻略をまかされ、河北の中心都市・を陥落させるなど、武功を挙げていきます。

漢は、本拠地である山西エリアから南へ向けての進出を試みます。

しかし、晋の力はまだまだ侮り難く、なかなか一気呵成にはいきませんでした。

308年には劉淵が皇帝に即位して、晋と全面対決の姿勢を構えます。

そして309年になります。

308年頃の勢力地図

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漢、平陽に遷都する

309年1月に、劉淵は重臣の宣于脩之の意見を採用し、山に囲まれ険しい地形の蒲子から河東エリアの中心都市・平陽に遷都します。

山西エリアに割拠する漢にとって平陽は、北の晋陽(今の太原、この時点では晋の劉琨が守っている)と並び重要な街になります。

平陽から南西に行き、黄河の渡し場・蒲坂を渡ると関中に入ることができ、南に行き太行山脈を超え、黄河を渡ると洛陽に至ることができます。

洛陽攻略などの南へ勢力拡大を目指す漢に取っては好条件な位置にあります。

この遷都により、漢は南への進出の意向をはっきりと表しました。

漢、黎陽を取る

3月に、晋の左積弩將軍の朱誕が漢に投降してきて劉淵に「洛陽は今孤立して弱まってますよ。チャンスっす。」と勧めます。

劉淵はこの意見をいれて、朱誕を前鋒都督に任命し、滅晉大將軍・劉景を大都督に任命し、黄河北岸の都市・黎陽を攻略させます。

朱誕と劉景は黎陽を陥落させ、そのあと晋の将軍・王堪を延津で破ります。

黎陽は洛陽から見るとかなり東に行った位置にあります。

洛陽を直撃するより、かなり手前に黄河北岸の地点を抑えて、西の洛陽へ迫っていく作戦だったのでしょうか。(延津は黎陽より西にあり、より洛陽に近い場所にある黄河の渡し場)

ともあれ、黄河周辺の重要ポイントを抑えた戦いでしたが、このあと漢の司令官・劉景がこのあたりの住民3千人を黄河に沈めるという暴挙に出ます。これを聞いた劉淵は激怒し、「むうう、天道にもとる行為とはこのことだ!儂らが倒すのは司馬氏だけだ、民たちに何の罪があろうか!」と劉景を更迭します。

匈奴と言えども、若き日から洛陽に留学して漢人もかなわないほどの文化水準をもった劉淵からしたら、蛮族むき出しの劉景の行為は許せないものだったのでしょう。

資治通鑑の胡三省注には、「劉淵の見識や知略は、(漢の次代の)劉聡や劉曜ごときが及ぶところでない」と言ってますが、のちの劉聡や劉曜の振る舞いを見るとまったくそのとおりだと思います。

石勒、張賓を手に入れる

漢の主力が洛陽目指して、南の方へ進出しつつあるころ、東方経略をまかされていた石勒は、常山、鉅鹿という河北エリアの主要都市を陥落させることに成功します。

このころは兵力が10万にまで至り、漢の一部将でありながら、かなりの勢力になっていました。

また、賢人や官吏となれる有能な人物たちも集まって来て、「君子営」という顧問団ともブレーンとも言える組織を作ります。

そして、趙郡出身の張賓という人物を謀主に任命します。この張賓こそ、このあと石勒の参謀として彼の覇業を支えていく人物です。

張賓は自らの才をいにしえの前漢・劉邦の軍師張良に並ぶと信じており、石勒が山東エリアにやってきたときに、「この胡人の将軍こそともに大事を成す人に間違いない」と思い、石勒の陣に採用面接に訪れます。石勒ははじめそこまで張賓のことを気に留めてなかったのですが、繰り出す策がことごとく当たるので、「こいつすげえじゃん。」と取り立て、以後何か行動するときは張賓の意見を聞くようになります。

石勒は、君子営の創設、張賓の抜擢の他にも、刁膺を股肱とし、夔安、孔萇、支雄、桃豹、逯明などを爪牙とするなど、自勢力の組織を固めていきます。この頃の組織作りが今後の後趙国の建国にもつながってきそうです。

ちなみに、爪牙は「その人の爪となり牙となって助け守るもの。護衛の士。」と漢字辞典にありますので、親衛隊のようなものだったのでしょうか。(この役職任命も資治通鑑と晋書で内容が異なっています。ここでは資治通鑑に従います。)

また、并州の諸胡もこのとき多数石勒に従ったとあります。

漢、壺關を攻略する

309年4月に、劉淵王弥、劉聡に命じて、并州上党郡の重要地点・壺關を攻略を命じます。

石勒も前鋒都督に命じられ壺關攻撃に駆り出されます。

晋にとっても壺關を取られると、漢が河北エリアや南の河內エリア(そこから南に黄河を渡るとすぐ洛陽に至る)へ容易に進出できてしまうようになるので、簡単に取られるわけにはいけません。

晋陽(今の太原)に駐屯する晋の劉琨が壺關防衛のために、将軍を派遣しますが、劉聡や石勒の漢の脳筋将軍たちに瞬殺されてしまいます。

この漢の壺關侵攻を聞いた、晋の実権を握る八王の生き残り司馬越も、援軍を派遣します。

しかし、この援軍は将軍同士の息があわず、太行山脈と長平の間で劉聡に大敗してしまい、派遣された将軍たちはことごとく討ち取られてしまいました。

劉聡はその勢いで、壺關近くの屯留、長子という都市を陥落させ9千の兵を討ち取ります。

これを聞いた壺關を守っていた晋の上党太守・龐淳は、もはやここまでと壺關の城とともに漢に降伏しました。

これにより、并州南部の重要拠点・壺關は漢の手に渡ります。

これを聞いた晋陽の劉琨は、別の将軍を上党太守に任命して、壺關の少し北にある襄垣という街に入れて、抵抗します。

壺關攻略戦で、晋の軍を木っ端にした劉聡はその勢いのまま、劉琨がいる晋陽に攻撃をしかけますが、この攻撃は劉琨により跳ね返されます。

この頃の漢の南方方面軍の主攻は劉聡が担っていた感があります。

洛陽攻撃の準備整う

漢は、

●晋陽への遷都

●黎陽・延津などの黄河下流域の街や渡し場の確保

●太行山脈を南や東に容易に超えるための、并州南部エリア(上党郡)の確保

などの一連の動きで、いよいよ晋の首都・洛陽攻撃の準備が整ってきました。

次回、洛陽攻撃がはじまります。

308年頃の勢力地図

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)

川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』


五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)


魏晋南北朝 (講談社学術文庫)


 

 

 

 

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