中国史上最大級の戦乱の時代、五胡十六国時代。その各国の攻防を描く 前趙(漢)②劉淵の台頭

中国史
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八王の乱がはじまり、成都王司馬穎の兵力として目をつけられる

南匈奴五部を束ねる五部大都督に任命されていた劉淵ですが、八王の乱が始まると、八王の一人、成都王司馬穎がこの劉淵に目をつけます。西晋の王室司馬一族は当時、権力を握るために中国内地、周辺にいた異民族の軍隊に目をつけ自分の勢力をのばすために彼らの力を利用しようと目論見ます。

司馬穎はこのときは、長沙王・司馬乂【がい】を倒し、権力を手に入れたころでした。劉淵は、司馬穎から鄴に留められ行寧朔将軍とされ、その後輔国将軍、冠軍事将軍に任命されます。

しかしそのあと、司馬穎が烏桓・鮮卑の兵力を利用した幷州刺史司馬騰や、安北将軍王浚に攻められ、劣勢に立たされます。司馬穎は五部匈奴の兵力を手に入れるために、劉淵を山西に派遣させます。

劉淵独立して漢を建国

このときには、五部匈奴は自立の道を図っており、劉淵の従祖父の劉宣らは、密かに劉淵を大単于に推戴します。

そこへ鄴から離れることに成功した劉淵が戻ってきて、304年8月に山西の離石で、劉淵は大単于を称します。

このとき、司馬穎は王浚に敗退して洛陽に逃れていきましたので、劉淵のもとにたくさんの民衆が集結するようになりました。

そして、劉淵は304年10月に離石の左国城で漢王を称し、また年号を元煕として独立を宣言します。

これにより前趙がはじまります。

ちなみにこのときの国名は趙ではなく漢です。これは匈奴がかつて前漢と通婚し兄弟の関係になったことと、自らの国が前漢・後漢・蜀漢(劉備の蜀)の後継であることをアピールするためであったからです。

漢(前趙)を建国したあと劉淵は司馬騰を破り、鄴を目指します。

また、建武将軍の劉曜を派遣して、太原、泫氏、屯留、中都などの山西の都市を落としていきます。

また、河東、蒲子、平陽などの重要な都市をことごとく勢力下に入れます。

この過程で、鮮卑や氐の有力者や、羯族の石勒(後趙の建国者)、漢人の名族の王弥や劉霊などの人材を獲得していきます。これにより、のちの前趙の発展につながっていきます。

そして308年10月に山西の蒲子で皇帝に即位をして、中国王朝風の官僚制度を整備し、309年1月に平陽に遷都をします。

劉淵死す

前記のような、国を基礎を固めた段階の310年6月劉淵は病死し、息子の劉和が後を継ぎます。

このあと、劉一族の争いが起こりますが、劉聡が勝ち抜き皇帝に即位します。

この建国者が死んだあとの、一族の争いは五胡十六国の各国の十八番と言ってもよいくらいこのあとも各国で起こります。中国内地で建国をしたあとも異民族の「最も力があるものが後継者となる」伝統が消えてなかったのではないかと思われます。この後継者争いは、五胡十六国の各国が短命であったという理由の一つであると考えられます。

劉聡が即位したあとの漢(前趙)はさらなる領土拡大を図っていき、その牙は、死に体となっていた西晋に襲いかかります。

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 


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