武田信玄の信濃侵攻④ ~塩尻峠の戦いと佐久の安定化~

歴史

上田原の合戦で、村上軍に手痛い敗北を喫した信玄ですが、その後、敗戦により諏訪や佐久の各地で起こった反武田の動きに苦しめられます。


信虎・信玄・勝頼 武田三代


戦国大名と国衆 (角川選書)

塩尻峠の戦い

天文十七年(1548ねん)7月10日に諏訪の西方衆や諏訪氏一族の矢島・花岡氏らが、小笠原長時に通じて反抗してきます。

小笠原長時も諏訪に向けて攻め込んできます。小笠原軍は自らの領土である筑摩郡と諏訪郡の境にあたる塩尻峠に5000の兵で陣を張っていました。

7月11日に甲府から出陣してわざとゆっくりと進軍してきた信玄は18日にようやく大井ケ森から諏訪に入ってきます。

そして諏訪に入った途端、電光石火の進軍をし、19日早朝に塩尻峠に滞陣中の小笠原軍に攻めかかります。前日までの動きでまだ武田軍は攻めて来ないと思っていた小笠原軍は寝起きで武具すらちゃんと着けていませんでした。そんな小笠原軍を武田軍は蹂躪し、千余人を討ち取り大勝利をかざりました。

まさに「疾きこと風の如く」を地で行く信玄の戦法でした。

上田原の戦いでの失墜を挽回し、各地を安定させる

小笠原軍を粉砕した、武田軍は西方衆を討ち、小笠原の残兵を掃討し諏訪を安定にさせます。

この塩尻峠の戦いによって、上田原の戦いによって生まれていた、反武田に動きは封じられていきます。

また、小笠原長時は当時信濃守護であったので、その長時を徹底的に打ち破ることにより、上田原の戦いでの物理的、精神的な痛手は癒されました。

信玄はその後9月に諏訪から佐久に入り、前山城を回復し、佐久も安定させます。

上田原の戦い以前の状態に勢力を戻した信玄は、いよいよ信濃の中心、小笠原長時が治める松本平の制圧を目指します。

【参考文献】
笹本正治『武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房、2005年11月)
平山優『武田信玄』 (吉川弘文館、2006年12月)


武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る (ミネルヴァ日本評伝選)


武田信玄 (歴史文化ライブラリー)

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