戦国時代

歴史

第1次~第5次の川中島の戦いの流れを書いてみる② 第一次川中島の戦いについて

武田信玄の信濃侵攻により、村上義清、高梨政頼などの信濃の国衆は、越後の上杉謙信に助けを求めます。上杉謙信(当時は長尾景虎と名乗っている)もそれに応じて信濃へ出兵しました。基本的に両軍は善光寺平(川中島)の領有をめぐって戦います。 信虎・信玄...
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第1次~第5次の川中島の戦いの流れを書いてみる③ 第二次川中島の戦いについて

戦の前の武田信玄の動き 第一次川中島の戦いが終わり、武田信玄(晴信)は上杉謙信(当時は長尾景虎と名乗っている)率いる越後軍の強さを実感し、単純に正面から戦う前に、様々な手を打ち始めます。 まず、背後を固めるために、天文二十三年(1554年)...
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第1次~第5次の川中島の戦いの流れを書いてみる④ 第三次川中島の戦いについて

第二次川中島の戦いのあとの信玄の調略 弘治元年(1555年)に上杉謙信と和睦し、第二次川中島の戦いは終わりましたが、武田信玄はその直後から調略をはじめます。善光寺周辺の国衆を調略で崩そうとし、弘治二年(1556年)善光寺の裏にある葛山城の落...
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第1次~第5次の川中島の戦いの流れを書いてみる⑤ 第四次川中島の戦いの前の両軍の動き 上杉(長尾)の場合

弘治三年(1557年)の第三次川中島の戦いのあと、4年たってから、永禄四年(1561年)に第四次川中島の戦いが勃発します。この合戦は戦国時代の中でも1,2を争う有名な合戦であり、5回あった川中島の戦いの戦いの中でも、突出しての激戦となり、両...
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第1次~第5次の川中島の戦いの流れを書いてみる⑥ 第四次川中島の戦いの前の両軍の動き 武田の場合

第三次川中島の戦いが終わったあと、上杉謙信(当時は長尾景虎)は上洛をし、天皇や将軍のお墨付きをもらった上で関東に出兵し、無双状態のまま小田原城を包囲し、鎌倉で関東管領職に就任するなどイケイケ状態でした。 では関東で上杉謙信が無双状態のとき、...
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第1次~第5次の川中島の戦いの流れを書いてみる⑦ 第四次川中島の戦い 合戦本戦

弘治三年(1557年)の第三次川中島の戦いが終わって、第四次川中島の戦いまでのあいだ、武田信玄、上杉謙信(当時は長尾景虎【途中、政虎に改名】)とそれぞれ、様々な動きを見せます。 上杉謙信→上洛 関東出兵 武田信玄→上杉謙信の上洛と関東出兵の...
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第1次~第5次の川中島の戦いの流れを書いてみる⑧ 第五次川中島の戦い

武田信玄と上杉謙信(当時は長尾輝虎)の戦いは、第四次川中島の戦いが一番有名ですが、その有名かつ大激戦の合戦のあとにも一度、川中島を舞台に戦っています。地味なイメージが強い第五次川中島の戦いをはどんな戦だったのでしょうか? 信虎・信玄・勝頼 ...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程①

毛利元就と言えば、安芸の国(今の広島県の西半分)から出発し中国地方のほぼ全体を制圧した戦国大名として知られていますが、その過程のはじまりは安芸・備後(2国あわせて今の広島県全体)を支配下に置いたことからはじまります。のちの中国地方における毛...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程② ~元就が家督を継ぐまで~

甥、幸松丸の後見としての元就の動き 元就が幸松丸の後見となったころの安芸・備後は、多くの国人領主がそれぞれの所領を治める状態でした。国人領主は、自分の所有する土地は完全に自治しており、服属する大勢力が戦をするときには自らの兵力を率いて参戦し...
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毛利元就が安芸・備後を支配下に置く過程③ ~家督相続から大内方への復帰~

毛利元就家督相続直後の騒動 甥の幸松丸が9歳で急死したあと、毛利元就は重臣たちに押され、毛利家の家督を継ぎます。 しかし、この家督継承はスムーズにことが進みませんでした。 宿老の中の、坂広秀と渡辺勝の二人は、元就が家督相続するときの重臣たち...