第1次~第5次の川中島の戦いの流れを書いてみる⑤ 第四次川中島の戦いの前の両軍の動き 上杉(長尾)の場合

武田信玄

弘治三年(1557年)の第三次川中島の戦いのあと、4年たってから、永禄四年(1561年)に第四次川中島の戦いが勃発します。この合戦は戦国時代の中でも1,2を争う有名な合戦であり、5回あった川中島の戦いの戦いの中でも、突出しての激戦となり、両軍に多くの死傷者を出します。両軍あわせると8000人に近い戦死者を出した戦いです。この第四次川中島の戦いはどのように推移していったのでしょうか。


信虎・信玄・勝頼 武田三代


戦国大名と国衆 (角川選書)

上杉謙信の上洛

第三次川中島の戦いが終わったあと、上杉謙信(当時は長尾景虎)は永禄二年(1559年)4月に2回目の上洛をします。そして、将軍足利義輝や正親町天皇にも拝謁をしました。上杉謙信としては人生の中でも最大級の晴れの舞台だったでしょう。

しかし、この翌年今川義元が上洛をしようとして織田信長に桶狭間の戦いで討ち取られたりしているのに、上杉謙信はよくやすやすと上洛できたなと思ってしまいます。越後から京の都までかなりの距離があり、その間にいろいろな勢力があるにもかかわらずさらっと上洛しているのです。京への道中の勢力は通るだけならOkという態度だったのでしょうか?

それはともかく4月から10月にかけての約半年間で将軍や天皇をはじめ、関白の近衛前久などの公家とも親しくつきあい京での人脈を広げていきます。

この上洛の理由の目的の一つは、北条氏康に追われ越後に逃げてきた関東管領上杉憲政を奉じて関東に出兵するための大義名分の獲得とそれにみあった官位や家格を獲得するためでした。

将軍足利義輝は上杉謙信の要請に応え、
①上杉憲政の後援者としての地位を認める
②足利一門や三管領と同等の諸特権を与える
→関東管領に内定する

などの待遇をしました。
このあと帰国したときに、信濃の国境あたりの国衆がこぞって上杉謙信のもとにお祝いに訪れているので、「関東管領」の名前は腐っても鯛の威光があったのでしょう。

関東出兵

上杉謙信は10月に帰国し、翌永禄三年(1560年)8月に上杉憲政や関東の国衆の出兵要請に応えて関東へ出陣します。

まず上野の国を制圧し、これにより関東の国衆や上杉家の旧家臣が上杉謙信の元に続々と降ってきます。北条の領国のラインは武蔵の松山城のあたりまで後退します。そのあいだ謙信は武田信玄の従兄弟の勝沼信元に調略を行ったりしています。これは武田信玄にばれて、勝沼一族は滅亡させられています。

永禄四年(1561年)3月になると、上杉謙信は降ってきた関東の諸将を引き連れて南下し小田原まで進出してきます。この時点で北条氏の領国ラインは河越城まで後退してしまいます。北条氏にとっては北条五代の歴史の中でも最大のピンチの一つでした。北条氏康はこの上杉謙信の勢いに対抗できず、小田原城を包囲されてしまいます。同盟国の武田、今川にも援軍要請をして、両国とも兵を派遣しています。

小田原城を囲んだ上杉謙信でしたが、さすがは天下一の城小田原城で、鉄壁の守りで城を落とすことはできませんでした。

上杉謙信は城を落とすのをあきらめ、鎌倉に行き、鶴岡八幡宮に参拝し、ここで関東管領職と山内上杉氏を相続することを宣言しました。ここで「長尾景虎」から「上杉政虎」と改名しました。

この関東出兵で、小田原城を落とすことはできなかったものの、上洛のときからの目的であった、関東管領の相続と、北条氏の勢力を駆逐し、関東での関東管領上杉氏の威光を取り戻すということは、ある程度成功したといっていいでしょう。

しかし武田信玄は上杉謙信が京や関東方面に眼を奪われているあいだ手をこまねいていたわけではありませんでした。

【参考文献】
笹本正治『武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房、2005年11月)
平山優『武田信玄』 (吉川弘文館、2006年12月)


武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る (ミネルヴァ日本評伝選)


武田信玄 (歴史文化ライブラリー)

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