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同じ鮮卑で隣の強敵、宇文部との戦いに勝利し、鮮卑大単于を称した慕容廆ですが、このあと、遼東の乱をおさめることによりさらに国力を上げていきます。
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遼東の混乱
309年、遼東太守であった龐本が、私的な恨みで東夷校尉の李臻を殺害します。鮮卑の素連、木津が李臻の復讐とかこつけて、遼東を荒らし回ります。西晋の軍もまるでかなわず、この混乱により遼東エリアは乱れに乱れます。
慕容廆の長男、慕容翰が慕容廆に、「素連、木津を討伐し遼東を取り戻せば、晋朝に忠義を示すことができ、素連、木津の軍も慕容部のものになります。これこそ、我らが上昇するきっかけになります。」と進言し、兵を発し、素連、木津の軍を大破し、彼らの兵を棘城に移し、あらたに遼東郡を立ち上げました。
優秀な慕容一族
ちなみに慕容廆に進言した慕容翰は慕容廆の長男ですが、身分の低い女の子供であったため、跡継ぎにはなれず、跡継ぎには慕容皝がなります。ただ、この慕容翰は非常に優れた軍才を持ち、このあと慕容部の侵攻戦の数々で活躍をします。ただその才能のため慕容皝から疑われ、その後数奇な運命をたどるようになります。慕容部は慕容廆とその息子、慕容翰・慕容皝、さらにその下の世代、慕容儁・慕容格・慕容垂と、この時代に多くの優れた人材が一族に出ます。急激な発展も納得できます。
慕容廆の政治手腕。中原からの人材、人民を受け入れ、国力アップ
慕容廆が遼東の乱をおさめたころ、中原では永嘉の乱が起こり西晋が滅亡へと進み、戦乱の炎につつまれます。
この永嘉の乱による中原の混乱は、幽州、冀州などの慕容廆のおさめる遼河近い州にも及び、たくさんの流民が慕容廆にの勢力下に流れて来ます。慕容廆はこれらの民衆を保護し、優秀な人材を積極的に登用していきます。
民衆の受け入れとしては、本拠地、棘城の周辺に新たに流民のための郡を作り、冀州出身者には、冀陽郡。豫州出身者には、成周郡。青州出身者には、營丘郡。并州出身者には、唐國郡。というように出身ごとに流民収容のための対処をします。
人材の登用としては、裴嶷、魯昌、陽耽を「謀主」。逢羨、游邃、西方虔などを「股肱」。封弈、宋該、皇甫岌などを「樞要」。朱左車、胡毋冀、孔纂を「賓友」。劉讚を儒学に精通しているとして「東庠祭酒」に任命して、初歩的な官僚機構を整えて、その政権を強化していきます。
このときの中原からの人の流入により、中原の農耕技術や、文化なども導入され、国力がアップしていきました。
中原の状況
中原では、
劉淵の即位(漢【前趙】の建国)。
劉聡の即位、西晋の懐帝を捕らえ処刑する。
石勒が譲国に拠り、幽州を本拠地にしていた王俊を滅ぼす。
西晋の琅邪王の司馬睿が江南で東晋の建国。
というように、西晋が滅び、東晋が江南で建国され、華北は、劉氏の前趙と石勒の後趙が東西に並び立つ状態になります。
慕容廆はあくまで西晋・東晋を尊重する立場を取り、317年の司馬睿の皇帝即位の勧進の上書にも名前を連ねます。
内政にも優れた手腕を発揮し、優秀な人材も登用し、順調に国力を伸ばしていた慕容廆ですが、危機が訪れます。慕容部周辺の三勢力が連合し、慕容部に攻め寄せて来るのです。
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』
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