第1次~第5次の川中島の戦いの流れを書いてみる⑥ 第四次川中島の戦いの前の両軍の動き 武田の場合

歴史

第三次川中島の戦いが終わったあと、上杉謙信(当時は長尾景虎)は上洛をし、天皇や将軍のお墨付きをもらった上で関東に出兵し、無双状態のまま小田原城を包囲し、鎌倉で関東管領職に就任するなどイケイケ状態でした。

では関東で上杉謙信が無双状態のとき、武田信玄は何をしていたのでしょうか?


信虎・信玄・勝頼 武田三代


戦国大名と国衆 (角川選書)

北信の制圧の継続を進め越後侵攻を伺う

武田信玄は上杉謙信が半年間越後を留守にしているあいだに、着々と北信の制圧を進めていきます。睨みをきかせる上杉謙信がいないのですから、武田信玄にとってはチャンスだったでしょう。さらに永禄二年(1559年)には越後国内に侵攻します。将軍義輝が武田の軍事行動を詰問しますが、信玄はまったく気にしません。

上杉謙信は越後から帰国すると、信濃に出兵しようとしますが、武田信玄は越中の神保長誠に誘いをかけ、上杉謙信が信濃に出兵したときには背後をつく策を講じていました。このため上杉謙信は信濃に進めず、永禄三年(1560年)3月になって、椎名康胤を助け、富山城、増山城を攻めて神保長誠を追放しました。

上杉謙信の関東出兵中の武田信玄の動き

上杉謙信が永禄三年(1560年)8月に関東に出兵します。上野の国に侵攻した上杉謙信は、沼田城を落とし、厩橋に入りました。武田信玄は北条氏康の要請を受けて信濃出兵します。また、同じ頃、武田信玄は川中島エリアの拠点として、海津城(のちの松代城)を築城し、高坂昌信を配置します。これにより川中島エリアの支配がまた一歩進んだと言ってもよいでしょう。

その一方で本願寺と連絡を取り、加賀と越中の一向宗門徒に上杉謙信が留守中の越後の背後を襲うように画策します。さらに10月17日越中井波の瑞泉寺の上田藤左衛門に書状を送り、神保長誠とともに越後を襲うよう要請します。

このように上杉謙信がいないあいだに北信支配に有利な状況を作る様々な計略を行っていきます。

永禄四年(1561年)に3月に上杉謙信は小田原城を包囲します。

武田信玄は北条氏康からの要請で上杉軍牽制のため、
・北信の国衆を海津城に集める
・援軍を小田原城に送る
・4月に碓氷峠を超えて上野の松井田に兵を進出させ、放火をさせる
などの動きをしています。

また5月には北信に出兵し、割ヶ岳城を落とし越後国境を脅かします。

上杉謙信の越後帰国と北信への出兵

上記の武田信玄の動きによって、上杉謙信は関東の攻略に専念ができず、越後へ帰国せざるを得なくなります。

そして怒り心頭の上杉謙信は8月14日に春日山城を出陣し、川中島に向かいます。

これによりいよいよ第四次川中島の戦いがはじまります。

【参考文献】
笹本正治『武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房、2005年11月)
平山優『武田信玄』 (吉川弘文館、2006年12月)


武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る (ミネルヴァ日本評伝選)


武田信玄 (歴史文化ライブラリー)

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