五胡十六国時代のきっかけとなった八王の乱について② ~乱の勃発~

中国史

八王一覧

「八王の乱」というからには、司馬氏八人の王が関係してきます。

まず八王をそれぞれ挙げていきます。
わかりやすいように番号もふってみます。

①楚王・瑋(恵帝の弟)
②汝南王・亮(司馬懿の子ども、司馬師・司馬昭の弟)
③趙王・倫(司馬懿の子ども、司馬師・司馬昭の弟)
④成都王・穎【えい】(恵帝の弟)
⑤斉王・冏【けい】(司馬昭の孫、恵帝の従兄弟)
⑥河間王・顒【ぐう】(司馬懿の甥の息子)
⑦長沙王・乂【がい】(恵帝の弟)
⑧東海王・越【えつ】(司馬懿の弟の息子)

恵帝と賈氏

武帝が崩御したあと、即位した恵帝は残念ながら人として暗愚な人物でした。

飢饉によって人民に食物が無くなって困っているとき、臣の一人が、「人民は米が無くなり困っております。」と恵帝に伝えたとき、

「米が無いなら肉を食えばいいではないか」

と、マリー・アントワネットも真っ青の迷言を吐きました。

思えば、恵帝の曽祖父司馬懿仲達は、諸葛亮孔明を向こうに回し、互角に近い戦いをした傑物でした。その息子、司馬師・司馬昭も司馬懿曰く、「我が家にも麒麟児が生まれていたか」と言わしめたほど優れた人物でした。
しかしそれが恵帝の代までいくと、司馬家のその優れた血脈が完全に薄まってしまったかのようであります。このあとに書く、恵帝の兄弟の八王たちも実は似たりよったりではないかと思われます。どうも、恵帝の父、司馬炎のときからその傾向はあったようです。天下統一を成し遂げた皇帝を言えば、聞こえはよいのですが、天下統一後の司馬炎は、酒池肉林の生活をし体を壊し死んでしまいます。

皇帝が馬鹿なだけで、廻りに問題がなければとくに問題はなかったかも知れませんが、恵帝の皇后は賈氏という稀代の悪女で権力欲が強い女性でした。

賈氏の父の賈充は、西晋の有力な政治家であり、西晋の建国から天下統一時に活躍をしました。賈充の父の賈逵は、三國志演義では呉の周魴の偽りの投稿を見抜いたり、その後の曹休の窮地を救ったりする活躍が出てきます。

八王の乱の経過(前半)

291年3月賈氏は、自分の権力を強化するために、まず、恵帝の母、楊太后の父の楊駿が恵帝を廃して自分が権力を握るのではかいかと疑い、恵帝の弟①楚王司馬瑋を使い、楊駿を討たせ、楊太后も幽閉し餓死させます。

ここから、八王の乱のはじまりになります。

賈氏は楊駿のあとに恵帝の後見となった②汝南王・亮と老臣の衛瓘も①楚王・瑋を使い殺させます。

①楚王・は、賈氏に協力をしてあわよくば皇太弟に取り立ててもらおうと考えていたようですが、狡兎死して走狗烹らる、利用価値がなくなった①楚王・はあわれ賈氏に罪に問われ処刑されます。

賈氏はさらに、今度は皇太子が恵帝を廃位するのではないかと疑い出し、皇太子をとらえて配所に送ったのちに毒殺してしまいます。

これを状況をみかねた③趙王・倫が兵をあげます。

つづきは後編で

 

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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』

  

 


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