武田信玄の信濃侵攻⑨

歴史

信濃南部・下伊那への侵攻

信玄と謙信がはじめて接触した第一次川中島の戦いのあと、天文二十三年(1554年)から信玄は下伊那と木曽へ侵攻していきます。まずは下伊那地方を狙い、7月24日に甲府から先発した小笠原信貴の軍勢が鈴岡城の小笠原信定を攻め、8月7日に落とします。そのあと、信玄が下伊那地方の武将たちに降伏を求め、多くの武将が武田方に降伏します。


信虎・信玄・勝頼 武田三代


戦国大名と国衆 (角川選書)

しかし、神之峰の知久頼元だけが降伏せずに抵抗します。よって、信玄は飯富昌景(後の山県昌景)に攻めさせます。昌景らは猛攻を加え落城させました。そのあと、8月15日に知久郷に火を放ちます。

この状況に恐れをなした下伊那南部を勢力範囲としていた、吉岡城の下条氏も武田に降ります。

これによって下伊那地方も武田の領地となりました。

佐久の反乱

この天文二十三年7月には佐久地方で反乱がありましたが、長男武田義信が鎮圧しました。

木曽への侵攻と第二次川中島の戦い

そのあと、信玄が狙ったのは木曽でした。天文二十四年(1555年)3月に武田軍は塩尻方面から木曽への攻撃を開始します。まず鳥居峠(中山道の難所)を下った藪原側に砦を気づきます。そのあと、信玄は軍勢を2つに分け、一隊は原虎胤に率いさせ、稲核から奈川へ越し、荻曽へ出て藪原を狙います。木曽側は慌てて敗走しましたが、信玄は深追いをせずに藪原に陣を構えます。4月5日に攻撃を開始しようとしますが、上杉謙信が川中島に出陣してきたため、主力を率いて川中島に向かいます。

これが第二次川中島の戦いになります。

木曽を制圧し、信濃の大部分を平定

8月になってから、信玄は再び木曽に軍を進め、小澤川端で木曽軍を撃破します。甲斐と信濃の大部分を領地とする武田軍と木曽地方のみを領有する木曽軍では兵力や国力に明らかな違いがあり、木曽義康は武田に降ります。

これによって、信玄は北信濃以外の、信濃のほとんどの地域を制圧するに至ります。

北信濃経略と上杉謙信との果てしなき戦い

残るは北信濃ですが、この北信濃の経略には、上杉謙信との川中島周辺での戦いや駆け引きが絡んでくるため、川中島の戦いを詳しく書くときに一緒に書きたいと思います。

川中島の戦いについてはこちら

甲斐と信濃のほとんどを手に入れた信玄はいよいよ戦国最強の名をほしいままにした大大名の道を歩んで行きます。

【参考文献】
笹本正治『武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る』(ミネルヴァ書房、2005年11月)
平山優『武田信玄』 (吉川弘文館、2006年12月)


武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る (ミネルヴァ日本評伝選)


武田信玄 (歴史文化ライブラリー)

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