こんにちは。
劉淵の漢の対晋戦争は、様々なエリアで晋軍を打ち破る戦果を挙げながらも、晋もまだまださずがの統一王朝の粘り腰を見せ、漢の洛陽攻撃を2回にわたり跳ね返すなどします。
石勒も河北エリアで晋軍と戦闘を継続しています。
このころになると、全国で反乱が起こったり、いろいろな勢力が自立をしているのですが、晋もそう簡単に滅亡はしません。
なかなかうまく対晋戦争が進まない中、漢の君主・劉淵が死去してしまいます。
五胡十六国時代のトップランナーにして、対晋戦争のシンボルであった劉淵の死は、反晋の勢力にかなりの影響を与えたのではないかと思われます。
君主が没した漢でも、混乱が起こり、一族間で争いが起こり、劉聡が新君主・劉和を殺し、自らが君主になります。
ゴタゴタしながらも劉聡が君主になり、洛陽攻撃を再開させます。
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第三次洛陽攻撃
漢は劉淵が死去したあと、劉聡がクーデターを起こし君主になっていましたが、劉淵死後さほど時が経っていない310年10月に早くも洛陽攻撃を再開させます。
第三次洛陽攻撃です。
この攻撃では、河內王・劉粲、始安王・劉曜、王彌が4万の兵率い、それに加え石勒も2万の兵で参加しています。
石勒は黄河の北の大陽で劉粲たちに合流し洛陽を目指します。
途中、晋の監軍将軍・裴邈を澠池で撃破し、洛陽盆地内の洛河に出ます。
ルートとしては、黄河の北の大陽から弘農郡の陝県(今の三門峡市)へと黄河を渡り、そこから東へ進み澠池(新安県)を通過して、新・函谷関を通り洛陽盆地に入るルートです。
前2回の洛陽攻撃では、南回りの宜陽経由で洛陽盆地に入った漢軍ですが、今回は陝県から東へより直線的なルートを取ったぽいです。
このように洛陽盆地に入った漢軍ですが、このあといきなりおかしな動きを取り始めます。
劉粲の軍は、盆地南東の轘轅関を抜けて、河南の梁、陳、汝、潁エリアを掠奪してまわります。
そして、石勒は成皋關から盆地を出て、陳留太守・王讚が守る倉垣を攻撃して敗れます。そして、石津という黄河の渡しまで退却して駐屯します。
このあと、石勒は何を血迷ったか、南のほうへ、南のほうへと行きたがります。江南の米でも食べたくなったのでしょうか。
漢の第三次洛陽攻撃は、そのまま終了になりますが、漢軍はほぼ空中分解感的に見えます。
漢軍と言っても、石勒たち各軍団長が、それぞれが独自で動いている寄せ集め感がよく出ている例ではないかと思います。
晋内部の分裂が進む
各軍が分裂気味の漢でしたが、晋はさらに内部が分裂していました。
劉琨と王浚の不和
太原の劉琨は、漢に味方する勢力を討つために義兄弟(マブダチ)の鮮卑拓跋部の拓跋猗盧に援軍を頼み、周辺の漢に味方する勢力を倒します。しかし、拓跋猗盧を代郡に封じ代公としようとしますが、代郡が当時幽州に属していたことから、幽州が自分のシマだと思っている王浚がこれを許さずなんと拓跋猗盧に攻撃をしかけます。これは拓跋猗盧に撃退されますが、これにより劉琨と王浚が不和になります。
司馬越、晋の臣たちを疑いまくる
劉琨は、司馬越(八王の生き残り)に使者を送り兵を出してもらい、劉聡や石勒を一緒に討とうと持ちかけますが、司馬越は当時、劉琨に援軍を送ると、河南あたりで反晋勢力を撃退していた苟晞などが自分に反抗し、後ろを討たれるのではないかと疑いの目を向けており、この申し出を断ります。
晋を支えるべき、重臣たちが互いに半目しあっているというどうしようもない状態です。
劉琨一人がんばっているような気がしますが、一人ではどうにもなりません。
また、このとき洛陽は飢餓状態に陥っており、司馬越は激をとばして全国から兵を集めようとしますが、だれも応じないという悲しい結果になります。
石勒、南陽を攻めて、江西に駐屯してしまう
さて、石勒は第三次洛陽攻撃で成皋關から出て東へ向かいましたが、そのあと、南陽方面に向かおうとします。
石勒の迷走南方ツアーがここからはじまります。
南陽エリアは、王如たちが流民を集め、晋の将軍を倒し大将軍を自称して割拠していました。
王如たちは、石勒が攻めてきたことを知ると、あわてて1万の兵で襄城という南陽盆地を出て北東へ進んだ地で石勒を迎え撃ちます。
一応、王如たちは割拠したときに漢に称藩したそうなので、漢に属する石勒から攻められるとか訳わからない状態だったと思われます。
王如たちはあっさり石勒に撃破されます。
このとき王如は石勒と兄弟の契を結んだそうですが、直後にあっさり裏切り石勒に滅ぼされます。
石勒は、この戦いで宛を陥落させ、続いて襄陽を攻撃し、江西エリアの砦30を抜いて、江西に駐屯してしまいます。
北はごちゃごちゃしているので、南のこのへんが穴場かと思ったのかもしれませんが、石勒に南の暖かい風は似合いません。
しかし、しばらくこの迷走ツアーは続きます。
嫌われ司馬越、すべての行動が晋にダメージを与える
この時期、司馬越は以前晋臣・王延などを誅殺したことによって、かなり人望を失っていましたが、ここで自らの石勒討伐を懐帝に求めます。
懐帝は司馬越を疎んじていましたが、司馬越が洛陽を離れると状況的によくないと思い止めますが、司馬越は強行します。
4万の兵で許昌へ向かいました。
司馬越が、洛陽を離れると、名のある将や兵などが司馬越のもとに行ってしまい。洛陽の宮殿は手薄になりさらに飢饉も進み、盗賊がわがまま顔で闊歩するまで治安が悪化したそうです。
また、司馬越は、洛陽が孤立しているのを見て寿春への遷都を上申した揚州都督の周馥に対して、司馬越を通さず直接上申したことに怒り周馥とも揉めます。
やることなすことすべてが悪い方へ行く司馬越。まさに晋朝に取って癌 兼 疫病神になってきました。
いよいよ、晋が天命を失っている状態が顕在化して来ました。
そして、後漢、魏、晋を通じて中華の中心であった帝都・洛陽が胡族の手に落ちる日がやって来ます。
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)
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