こんにちは。
氐族の苻氏は、後趙の内乱からの華北大乱の隙きをつき、河北エリアから関中への侵攻を行います。
そして350年10月長安の攻略に成功し、351年1月に苻健が天王・大単于に即位し、「大秦」を国号とし、「皇始」と改元します。
前秦の建国です。
このように、関中の中心エリアを手に入れ自立し、意気揚々の苻健率いる苻氏勢力ですが、ここから地獄がはじます。
その地獄から、文字通りの死闘によって、前秦を守り抜いた男がいました。
前秦君主・苻健の弟で、のちの英主・苻堅のお父様である苻雄です。
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前秦建国時の状況
351年1月に前秦は関中にて建国しましたが、その支配は盤石とはほど遠い状態でした。
苻健が長安を取るまで、関中で自立していた杜洪は、部下の張琚とともに、長安の西にある司竹に逃げそこで割拠していました。
また、関中の民は東晋への思いがあり、なかなか新参者の前秦へは服さない状態でした。
さらに、華北の混乱に乗じて、東晋が北伐を画策しており、それは関中も狙いに入っていました。
不安定な状況が続いていますが、苻健は関中で旧後趙の苛烈な制度や税に苦しめられていた民を救おうと善政を行います。
そのようななか、司竹に逃れていた杜洪と張琚は、失地挽回をしようと東晋のキラーマシン司馬勳を関中に招き入れてその力を借りようとします。
司馬勳はこの要請に応じ、3万の兵で関中に攻め込んできます。この報を聞いた前秦君主・苻健は五丈原で迎え撃ち、見事司馬勳の撃退に成功します。
「五丈原の戦い」と言えば、三国志での諸葛亮孔明と司馬懿仲達の戦いが有名ですが、五胡十六国時代にも「五丈原の戦い」があったのですね。
五丈原自体が、漢中から北に軍を進めるときに、秦嶺山脈を抜けるルートの一つ「褒斜道」を抜けて関中に入ったところにありますので、漢中から攻めてきた勢力との戦いがここで行われる可能性は高いのかもしれません。
司馬勳の北伐を退けたあと、苻健は352年1月に皇帝に即位します。
このあと、杜洪は、張琚と宜秋というところに駐屯しますが、仲違いを起こし、張琚が杜洪を殺してしまいます。張琚はここで自立して秦王を名乗ります。
張琚もこのあと5月には苻健に滅ぼされます。
ここまでは前秦も順調です。
苻雄の戦いはじまる
殷浩の北伐
352年1月に東晋の殷浩が北伐を開始します。
しかし全体的にこの北伐はグダグダでした。
許昌にいた後趙旧臣の張遇もはじめは東晋に降ろうと思っていたのですが、対応した謝尚が張遇を怒らせてしまい、張遇は許昌を中心とした河南エリアで自立してしまいます。
張遇は前秦に帰順し、前秦は張遇を征東大將軍&豫州牧に任命します。
殷浩の北伐軍は、張遇の勢力に洛陽もおさえられ、さらに倉垣を攻められるなど、軍を進められない状態に陥っていましたが、6月に謝尚と、東晋に帰順ホヤホヤの姚襄の軍が連合して許昌の張遇を攻めます。
前秦君主・苻健は、自分とこに帰順してきた張遇と、その領域の河南エリアを失ってはいけないと、苻雄に2万の軍を預けて、苻菁とともに張遇の救援に向かわせます。
ここから前秦建国時の名将・苻雄の命を懸けた凄絶な戦いが始まります。
苻雄、東晋軍を破る
苻雄と苻菁は、潁水の誡橋で、謝尚率いる東晋軍を大破します。謝尚は5千の戦死者を出し淮南へ軍を引きます。
この謝尚の敗戦を聞いた殷浩も軍を寿春まで引きました。全然前に進みませんね。
7月に苻雄は、張遇と陳、潁、許、洛の民衆を前秦の本拠地・関中に連れて(さらって)いきました。五胡十六国名物の一つ「徙民(しみん)」というやつですね。
労働力となる人口を増やすことは、国力を上げるために重要なことで、そのための手っ取り早い「政策」が「徙民」でした。
ちなみに許昌はこのあと、謝尚が派遣した冠軍將軍・王俠によって取り返されてしまいます。
隴西の平定と前涼との戦い
隴西を攻撃
後趙の旧将の王擢は、後趙崩壊後、隴西(関中を西側、隴山の西、天水などがあるエリア)で割拠していました。
関中周辺の支配も目論む前秦は当然これを攻めます。352年11月、苻健は6月に東の東晋との戦いで奮闘した苻雄を司令官にし、王擢を攻撃させます。
苻雄は王擢を撃破し、王擢は涼州の前涼へ逃げます。
前涼君主・張重華は逃げてきた王擢を重く用います。
前涼軍を迎撃
353年2月、前涼君主・張重華は將軍・張弘、宋修と帰順したばかりの王擢に1万5千の兵を率いさせ前秦へ侵攻させます。
苻雄は再び甥の苻菁とともに前涼軍を迎え撃ち、龍黎の地で前涼軍を大破します。
張弘と宋修は前秦に捕らえられ、王擢も秦州(だいたい隴西エリアのこと)の支配を放棄し前涼の首都・姑臧に逃げていきました。この勝利により前秦は隴西を攻略、苻健は領軍將軍の苻願を派遣し、秦州刺史とし上邽(今の天水市あたり)に駐屯させました。
こうして、苻雄の活躍により手に入れた隴西ですが、353年5月には前涼が王擢に2万の兵を与え上邽を攻めさせ、さらに秦州の郡県の多くが前涼に呼応してしまい、苻願は敗れてしまい長安に逃げ帰ります。隴西は前涼に取られてしまいます。
許昌といい、隴西といい、苻雄の勝利により手に入れたにもかかわらずあっという間に、取り返されてしまうという、前秦の将軍もピンきりだったようです。
このあと、6月に前秦の苻飛が前仇池を攻めますがその峻険な地形などにより返り討ちにされてしまいます。
苻雄は仇池の逆襲に備え、苻菁とともに隴東に4万の兵で駐屯し備えます。
張遇の乱に発する関中各地の反乱の鎮圧
前秦君主の苻健は、帰順してきた張遇の継母を自分の後宮に入れ、張遇に会うたびに、
「君は私の息子である」
と、言っていました。
「このクソゲロ氐族が、人の母親を手篭めにしおって・・・」
とでも思ったのでしょうか、このことを張遇は大屈辱と感じ、前秦の支配を心良しとしない関中の豪族を結集して、反乱を企てます。
せっかく帰順してきた張遇を女関係で激怒させてしまう。のちの苻堅様といい、人の気持ちに鈍感なのか、この一族はどうもあっち方面での失敗が多いようです。
ともあれ、張遇は苻健への暗殺計画を進めようとしますが、発覚してしまい誅殺されてしまいます。
しかし、燃え上がった炎は簡単には消せません。
孔持が池陽で、劉珍と夏侯顯が鄠で、喬秉が雍で、胡陽赤が司竹で、呼延毒が灞城でと、前秦国内5ヶ所で反乱が起こります。
そして、各勢力が東晋に援軍を求めます。
この反乱の連鎖に、353年9月苻雄はまず隴東から長安に戻り、苻菁を派遣して関中の東南方面にある上洛を攻略させます。
この地は、そのまま東南に行くと、武関を抜け荊州の南陽に至るルート上にあります。
上洛を取ることにより、南方方面との通商が可能になり、国庫が潤ったとあり、国内反乱中ですが、腹が減ったら戦も出来ぬとばかりに反乱鎮圧のための軍資金を調達したのでしょうか?
さて、その後苻雄は反乱討伐に本腰を入れます。苻法、苻飛とともに池陽の孔持を攻め11月にはこれを斬ります。
苻法と苻飛は返す刀で、鄠の劉珍と夏侯顯を攻めこれを斬ります。
とりあえず2ヶ所の反乱は鎮圧しました。
そうこうしているうちに、年が明けて354年になります。
苻雄は354年1月に司竹の胡陽赤を攻め破ります。胡陽赤は灞城の呼延毒の元に逃げます。
これにより、5ヶ所の反乱のうち3ヶ所が鎮圧され、残りは2ヶ所になりますが、ここで東南方面から巨人が進撃してきます。
桓温の第一次北伐 前秦は亡国のときを迎える
前述の東晋・殷浩の北伐は最初から最後までグダグダで、東晋に帰順してきた姚襄の強さを気に食わない殷浩が、姚襄を暗殺しようとして失敗して、逆に姚襄軍によってボコられるなど、そもそも何のための北伐かもわからなくなっていました。
そして続く戦役に世の中の殷浩に対する怨みが日に日に増して来ました。この機に桓温は殷浩を弾劾し、殷浩は左遷されてしまいます。
これにより、東晋での権力は桓温のもとに集まりました。
これを機に、桓温は自らの声望をさらに上げようと、北伐の軍を起こします。
桓温の第一次北伐です。
狙いは建国したばかりの前秦です。
桓温は、354年2月、歩兵騎兵あわせて4万の兵で、江陵から出陣しました。水軍は襄陽から均口に入って南郷に進みます。同時に歩兵は淅川から武関へ進みます。水軍、陸軍と分かれていますが、基本は南陽盆地方面から武関を通り関中へと西北に進んでいく方針ですね。
桓温はさらに漢中に赴任している司馬勳に命じて、子午谷より漢中へ進軍させます。子午谷は三国志で魏延が諸葛亮孔明にここを通って一気に長安を衝きましょうと進言した路ですね。孔明は慎重を期し、この進言を却下しましたが、とくに現状で慎重を期す必要もない桓温はここの進撃を命じます。
そして、前涼に帰順していた王擢もこの機に乗じ、陳倉を攻撃し、桓温の北伐に応じます。陳倉も三国志で有名な城ですね。孔明の北伐に対する魏の防御拠点の一つです。
このように、桓温率いる東晋本体が南陽方面から、司馬勳率いる東晋の別働隊が漢中から、王擢率いる前涼軍が隴西方面から同時に攻めてきて、前秦は3方向から一斉に攻められるという、まさに国家存亡の秋(とき)を迎えます。
さて、桓温はまず3月に将軍を派遣して、上洛を陥落させ、前秦の荊州刺史・郭敬を捕らえます。そのまま軍を進め青泥を陥落させます。
この東晋軍の侵攻を聞いた苻健は、太子の苻萇、苻雄、苻生、苻菁、苻碩の一族であり前秦の主力の将軍でもある彼らに5万の兵を与え嶢柳で東晋軍を防ごうとします。
嶢柳には嶢関という関があり、ちょうど南陽方面から秦嶺山脈を抜けて関中盆地に入ってくるあたりにあります。
嶢関がある秦嶺山脈と関中盆地の境を防衛ラインに設定して、関中に東晋軍が入ってくるのを防ぐというプランだったのでしょう。
しかし、東晋軍はこのラインを突破し関中の盆地内へ進出してきます。
5月、桓温率いる東晋軍と、前秦軍は藍田で激突します。(ここで言う「藍田」は藍田の県城の事かもしれませんし、中国歴史地図集の表記がある「藍田関(嶢関と同一か?)」の事かもしれません。)
この戦いでは、苻健の息子の苻生が単騎で東晋軍に突撃をしかけ、多くの東晋兵を討ち取るなどの活躍をしますが、桓温も兵を励まし死力を尽くした戦いを行います。
これにより前秦軍は崩れ大敗を喫します。
また、東晋の将軍・桓沖率いる軍が白鹿原で苻雄を破ります。さすがの苻雄も、勢いに乗る桓温率いる東晋軍(桓沖は桓温の弟で、こいつも東晋の名将の一人)の前では分が悪かったようです。
ともあれ、一連の戦いで、前秦軍の防衛ラインを破っていった桓温は灞上まで軍を進めます。灞上は前述、白鹿原を少し北に進んだところで、灞水と滻水が合流するあたりになります。
関中盆地の中まで、東晋軍に進出された前秦君主・苻健は、太子の苻萇などの軍を退かせて長安の南付近に駐屯させ守らせます。そして、苻健は老兵や弱兵などを長安城に残し、みずからもこれとともに長安城を守り、精鋭3万を選りすぐり、大司馬の雷弱兒などに率いさせ、長安南に駐屯する苻萇の兵と合わせ、この軍で長安の最終防衛軍とします。まさに前秦にとっては後がない状況にまで追い込まれます。
この戦況によって、三輔(関中エリアのこと)の郡県は皆桓温の元に降伏の使者を送ってきます。桓温も関中の民衆を慰撫していき、この後も今までの生活が変わることはないことを保障します。民衆たちは争って東晋軍へ牛肉・酒を持っていき、軍を慰労します。民衆たちは路の両側に押し寄せ、進軍する東晋軍を応援し、土地の古老たちは泣きながら言います。
「今日また晋の官軍を見ることができようとは思わなかったわい」
まさに、関中挙げて桓温率いる東晋軍の進行を歓迎する始末です。前秦という国は絶体絶命の崖っぷちに追い込まれました。
この状況を覆したのは、「救国の英雄」苻雄でした。
前秦の反撃
苻雄はまず、関中に浸出してくる桓温の東晋軍本体はほっとき、7千の兵を率いて関中の西方面に侵攻してきている東晋・司馬勳の軍を子午谷にて急襲し、これを破ります。
司馬勳は兵を女媧堡まで退きます。
三方から押し寄せる侵攻軍の一端を打ち破り、圧力の一つをなくします。
そして東へ軍を取って返し、再度、長安城の東にある白鹿原で桓温率いる東晋軍と激突し、今度はこれを破り、東晋軍は万を超える死者を出します。
ガチンコで桓温とぶち当たり打ち負かす苻雄の強さは尋常ではありません。
さて、この東晋軍の侵攻がはじまった時期に前秦は、関中の麦をことごとく刈り取っており、関中内の麦を奪い兵糧としようとしていた桓温にとって困ったことになります。東晋軍はたちまち兵糧不足に陥ってしまいます。(桓温はこののちも同じようなことをやらかす。基本兵站に関しては下手くそな気がしてきている・・・)
兵糧不足になってしまうとさすがの巨人・桓温も戦うことができません。
関中の民のうち3千人を連れて退却を始めます。
このとき、桓温は関中で知り合った王猛(のちの苻堅様の参謀にして、前秦を華北統一に導く怪物)を「こいつはすげえやつだ!」と気に入り、連れて帰ろうとしますが、見事にふられてしまいます。
東晋軍の退却に際し、先に前秦国内で反乱を起こしていた呼延毒は1万の衆とともに桓温に従って東晋に向かいます。
前秦・太子の苻萇は退却する東晋軍を追撃し、潼関で追いつき万を超える兵を討ち取りました。東晋軍の退却ルートは、南陽方面へ東南へ向かうのではなく東へ進み潼関を抜けるルートを取ったようです。
桓温の東晋軍本体が退却したのを見て、苻雄は、再度西へ軍を進め、合流して陳倉にいた司馬勳と王擢を攻撃し、これを打ち破ります。
司馬勳は漢中へ退却し、王擢は略陽(天水のちょっと東)へ逃げます。
これにより、三路すべての敵を撃退することに成功し、前秦は亡国の危機を脱します。
まさに、西へ東へ八面六臂の活躍を見せた苻雄の活躍のおかげと言っても過言でありません。
苻雄の死
桓温の第一次北伐北伐を退けた苻雄ですが、休む間もなく、前秦国内で勃発した5ヶ所の反乱のうち、最後まで残っていた雍の喬秉の討伐に向かいます。
しかし、この戦いの最中、苻雄は急死してしまいます。
資治通鑑には、
秦東海敬武王雄攻喬秉于雍;丙申,卒
とあり、突然死んだ感がよく出ている気がします。
おそらく、働きすぎでの過労死ではないかと思います。
この苻雄の訃報を聞いた、前秦君主・苻健は慟哭し血を吐きながらこう言います。
「天はわしに四海を平定させようとしているはずのに、なぜわしから元才(苻雄の字)をこんなに早く奪ってしまったのか!!」
「いや、お前が働かせすぎなんだよ、このブラック社長が!」という言葉は押さえつつ、先に進めます。
苻健は苻雄に「魏王」の位を送り
「元才はわしの周公旦だった」
と最大級の賛辞を送ります。
苻雄が最後に攻めていた雍の喬秉は、前秦・太子の苻萇が8月に攻略成功し、これにより前秦の関中平定は完了しました。
建国してすぐに、滅亡しそうになった前秦をまさに命懸けの戦いで救った英雄・苻雄は、短いながらも鮮烈な輝きを発して消えていきました。
そしてこの苻雄の息子が、この後、前秦を強国にし華北統一を達成する英主・苻堅様なのです。
苻雄のがんばりがないと、その後も苻堅様の華北統一もなかったことでしょう。
付録:前秦建国後の苻雄の戦歴リスト(歴史の宮殿調べ)
352年6月 苻菁とともに許昌に張遇の救援に向かう
11月 隴西で割拠していた王擢を攻め破る
353年2月 前涼に帰順した王擢が1万5千の兵で攻めてきたのを撃退する。
6月 隴東に4万の兵で駐屯。
9月 苻雄は隴東から長安に戻り、苻菁を派遣して関中の東南方面にある
上洛を攻略させる
11月 池陽の孔持を攻め攻略する。
354年1月 司竹の胡陽赤を攻め破る。
3月 太子の苻萇、苻生、苻菁、苻碩とともに桓温の北伐軍を迎え撃つ。
白鹿原で桓沖に一旦敗れる
7千の兵を率いて関中の西方面に侵攻してきている東晋・司馬勳の軍を
子午谷にて急襲し破る。
5月 東へ軍を取って返し、再度、長安城の東にある白鹿原で
桓温率いる東晋軍と激突し、今度はこれを破る。
6月 苻雄は、再度西へ軍を進め、合流して陳倉にいた司馬勳と
王擢を攻撃し、これを打ち破る
前秦国内で勃発した5ヶ所の反乱のうち、最後まで残っていた雍の
喬秉の討伐に向かう。
この戦いの最中、苻雄は急死。
こ、これは過労死するわ・・・
五胡十六国時代の勢力変遷の地図を1冊にまとめた
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【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)
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