こんにちは。
冉魏という魔の国を建国した冉閔でしたが、首都・鄴のすぐ北の襄國(ドラクエ的に言うと竜王の城のすぐ北にラダトーム城があるのと同じ。間を隔てる海はない)に割拠した後趙の残党・石祗を倒すために、10万の兵で出陣します。
しかし、この攻撃は姚弋仲、前燕からの援軍を得ることに成功した石祗によって包囲攻撃を受け、引き連れた10万の冉魏の軍が壊滅するという大敗をし、鄴へ退却させられます。
この敗戦により、一瞬(ほんとに一瞬)後趙をしのぐ威勢を見せた冉魏は崩壊の道をたどり始めます。
五胡十六国時代を含む、魏晋南北朝時代のおおまかな流れはこちら
中原大いに乱れる
さて、冉閔が後趙の実権を握ったあたりから、中原は戦がない月はありませんでした。
まさに魔王が治める暗黒の国そのものな様相であったのですが、後趙が華北を統一していく過程で華北各地の多くの民や、氐、羌、胡、蛮などの周辺民族など数百万の人々がもともといた場所から鄴周辺などの後趙の中心エリアに移動させられていました。
そして、この後趙崩壊の段階で、各部族や民衆たちがそれぞれの本拠地に帰ることを目指し、大移動をはじめます。そのため道路は大混雑し、各部衆が殺し合い、本拠地にたどり着いたのは、10のうち2か3だった言います。
このような「中原大乱」という言葉でしか表せない大混乱の状況で、飢餓、疫病が広がり、食べ物がなく人々はお互いに食い合い、農地は荒れ果て、再び耕すものが現れないという、地獄絵図としか言いようがない世界になります。
まさに冉閔は魔王、勇者が現れるのを待つしかないというひどい状況です。
石祗、鄴を攻める
姚弋仲、前燕の援軍によって、冉閔の襄國攻撃を防ぎ、冉閔に大打撃を与えた石祗は、逆に劉顯に7万の兵を率いさせ鄴を攻撃させます。
劉顯の軍は、鄴から23里の明光宮に布陣します。
冉閔は、「やばいぞ」と王泰を呼んで対応を協議しようとしますが、王泰は先の戦いで、冉閔が自分の献策を無視して大敗北をくらっているので、激怒しており、仮病を使って会おうとしませんでした。
これに対して、冉閔は逆ギレして、「あとでぶっ殺してやる!」と言い、自ら兵を率いて出陣、劉顯を迎え撃ちます。
この戦いは、
冉閔の大勝でした。
劉顯は陽平というところまで追撃され3万の兵を討たれてしまいます。
挙句の果てに、冉閔に自分の主君の石祗を殺害することを約束し許してもらうというレベルでボコボコにされてしまいます。
つい最近、10万の兵を失う大敗北を屈していながら、正面からぶつかるとやはり人智を超えたこの強さという、やはりこの男、五胡十六国時代最強で間違いないです。
ちなみに王泰はこのあと前秦に逃げようとしましたが果たせず、冉閔に三族皆殺しで処刑されてしまいました。
後趙、滅亡
冉閔に敗れて襄國に逃げ帰った劉顯は、律儀に石祗殺害を実行し、石祗の首を冉閔の元に送付します。
冉閔は石祗の首を城内で焼き払い、劉顯に大將軍、大單于、冀州牧に任命するなど、「ようやったぞ」と褒め称えます。
この351年4月の石祗の死をもって、後趙は滅亡ということになります。
これによって、華北は冉魏のもの?となればよかったですが、もはや華北は各地でいろいろな勢力が割拠しており、冉魏の支配するところは、実質鄴周辺のみになっていきます。
冉魏、崩壊へ向かう
石祗を殺した劉顯はあっさりと冉閔を裏切り、7月鄴を攻めてきます。
冉閔はこの攻撃もさくっと撃破します。
劉顯は襄國に戻り、ここで皇帝を自称します。
8月になると、名目上は冉魏の太守であった、徐州刺史の周成、兗州刺史の魏統、荊州刺史の樂弘、豫州牧の張遇が、廩丘、許昌などの河南などの諸城とともに東晋に降伏します。
また、平南將軍の高崇、征虜將軍の呂護も洛州刺史・鄭系を捕らえ、その土地とともに東晋に降伏します。
こうして、冉魏の各地の太守が東晋に降るなどし、冉魏は崩壊の道を進みます。
前燕の冀州侵攻
南の領土が東晋に併合されていくなか、北の領土も前燕に侵食されていきます。
前燕の主力・慕容恪によって、中山を攻略され、また常山や魯口も攻撃されます。
また、このタイミングで幷州の上党太守も前燕に降ります。
そして、姚弋仲も10月に東晋に服属します。
このように、冉魏が領土が急激に減っていく中、運命の352年を迎えます。
冉閔、襄國を手に入れる
352年になると、先に襄國に割拠した劉顯が、一応冉魏の領土である常山を攻めてきます。
常山は、前燕からも攻められていますが、まだぎり冉魏の領土だったようです。
冉閔は、大將軍の蔣幹に太子の冉智を補佐させ鄴を守らせ、自らは、8千の兵を率いて常山の救援に向かいます。以前は10万の兵を率いて出陣していた冉閔ですが、先の大敗北で動員能力が著しく減っていたのか、8千しか連れていけない状況になっていまいた。
しかし、8千とは言え、冉閔が率いる精鋭です。
ここでも劉顯をさっくり撃破し、逃げる劉顯を襄國まで追撃します。
ここで、襄國を守る曹伏駒という武将が劉顯を裏切り、冉閔を城内に引き入れます。これにより襄國は陥落、冉閔は劉顯とその臣下100人以上を処刑しました。
そして、せっかく手に入れた襄國を燃やし、民衆を鄴へ移します。
このあと、石祗とともに冉閔に対抗していた石琨は、もはやこれまで、と妻とともに東晋に降伏します。
しかし、後趙・石氏一族は永嘉の乱以降、晋室を苦しめ続けた、東晋にとって恨み骨髄に徹する仇敵です。許されるはずもなく、建康の市で処刑されてしまいました。これで主だった石氏一族は全滅ということになりました。
東晋・殷浩の北伐
352年の華北の混乱をみて、東晋の殷浩が北伐を進めます。
許昌や洛陽エリアに軍を進めようとし、安西將軍・謝尚や北中郎將・荀羨を軍を統べさせ、寿春に軍を置きます。
ところが、ここで謝尚が冉魏の張遇を慰撫することに失敗してしまい、張遇は怒ってしまい許昌で自立してしまいます。さらに張遇の配下の上官恩が洛陽を占領させます。さらに、樂弘に倉垣にいた戴施を攻めさせます。
この張遇の割拠により、殷浩は軍を進めることができなくなってしまいます。
姚弋仲の死と、その勢力の南遷
石虎死後、河北の灄頭に割拠していた姚弋仲ですが、352年ついに死の時を迎えます。
死に際して、子どもたち(42人いた)に遺言を残します。
「石氏はわしによくしてくれた。わしはその恩に答え力を尽くしてきた。しかし今石氏は滅びた。中原に主はいなくなってしまったのだ。わしが死んだらお前らはすみやかに晋に帰順をするのじゃ。臣下たるものの礼節をとり、不義をしてはならぬ!」
今さら東晋につけという遺言もどうかと思いますが、跡を継いだ姚襄はこの遺言を勢力の基本方針とし、6万戸を率いて南へ進軍し、陽平、元城、發干を攻め取り、碻磝津に駐屯します。
このあたりは、鄴から東へいった黄河の両岸エリアであったと思われます。冉魏からこのエリアを奪取して割拠しつつ東晋に帰順する腹積もりであったと思われます。
しかしここで、前秦の軍と衝突して姚襄は敗北、3万戸を失い、南の滎陽まで逃げていきます。
前秦の主力は関中に入っていますが、黄河北岸の枋頭から西は前秦が勢力としていたので、黄河両岸の元冉魏(後趙)太守の中には、前秦に帰順していたやつらもいたのでしょう。
姚襄は滎陽に至ったあと、もと後趙の将軍で今は前秦に降っていた高昌、李歷と麻田というところで交戦します。
戦いの最中に、姚襄の乗っていた馬が矢に当たり死んでしまいます。
そこへ弟の姚萇(のちの後秦の建国者)がやって来て、馬を姚襄に譲ろうとします。
姚襄は、「お前は馬なしでどうやって逃れるのか?」と聞きますが、
姚萇は「わたしができることはただ兄上を救うことだけです。それに苻氏についている青二才ども(李歷と麻田)がどうして私を倒すことができましょうか。」と言います。
姚萇なかなかの男前ぶりです。
このあと援軍が来て、姚襄、姚萇ともに逃れることができました。
このあと、姚襄は東晋に帰順を申し出、譙城に駐屯することを命じられます。姚萇はこのあと、単騎で淮水を渡り寿春にいた謝尚と会い意気投合し仲良くなります。
東晋は優秀な人材を手に入れたようですが、このあと殷浩がぶち壊してしまいます。それは別の話になりますので、このシリーズでは書きません。
このように、河北、河南も冉魏の領土は削られていき、青色吐息の状態に冉魏は陥ります。
前燕慕容恪との戦い
さて、皇帝になったあと、領土(もともと後趙の領土)が次々となくなっていく冉閔ですが、さきの戦いで、襄國を手に入れました。(燃やしましたが)
そのあと、なぜか常山や中山の郡をぶらぶらと回っていたようです。
このとき段勤という人物が胡族・羯族1万人をまとめ繹幕で割拠します。
この冉閔や河北の動きをみていた前燕の慕容儁は、352年4月一気に決めてしまおうと動き始めます。
前燕のスーパーエース慕容恪と、慕容恪に勝るとも劣らない武才をもつ慕容垂(このときは慕容覇と名乗っている)に命じて、冉魏と段勤勢力に対して攻撃をかけます。
この前燕と冉魏の戦いは、
「五胡十六国時代の名勝負を描く 最強・冉閔 vs 名将・慕容恪 「廉臺の戦い」」
で詳しく書いていますので、詳細はそちらを見て下さい。
ここでは、簡単に流れを書きます。
前燕と冉魏の軍は冀州・魏昌の廉臺というところで激突をします。
冉閔は慕容恪の強力な騎兵に対しても、10戦して全部勝つというおそるべき強さを発揮します。
この冉閔の強さをみた慕容恪は、五胡十六国時代最高の名将にふさわしい戦術を練り上げ、連環馬で鉄の壁を作り冉閔の最強の歩兵を遮り、包囲殲滅を狙います。
冉閔はこの戦術に対しても、1日千里を走るという名馬「朱龍」にまたがり、左手に兩刃矛を操り、右手は鉤戟を持ち、恐るべき二刀流で前燕の兵を屠っていきます。
冉閔一人で300人倒したようですが、慕容恪の戦術が発動、包囲が完成し冉閔の軍は壊滅します。
それでも冉閔は包囲を突破し20里ほど逃げますがここで朱龍が息絶えてしまい、ついに冉閔も捕らえられてしまいました。
冉閔、最後の咆哮
廉臺の戦いのあと、冉閔は慕容儁のいる薊に連行されました。
慕容儁は捕らえられた冉閔にこう言います。
「お前は奴隷で才能に劣るくせに、なぜ皇帝を称した?」
冉閔はこう答えました。
「天下は大いに乱れておる。お前らのような北の広野から来た夷狄禽獣の類いが帝を称しているのに、中原の英雄であるわしが皇帝を称せないことがあろうか!!!」(意訳)
これを聞いた慕容儁は激怒し、鞭打ち300発を冉閔にくらわせます。ふつうなら死ぬと思いますが、最強の体を持つ冉閔はこれでも死にません。このあと龍城に護送されます。
冉閔の処刑と、冉魏の滅亡
前燕の鄴攻撃
冉閔を捕らえ、冉魏の主力兵をほぼ滅した慕容儁は河北攻略の仕上げとして、冉魏の首都にして当時の華北の中心都市である鄴の攻略に取り掛かります。
慕容評を司令官として鄴を包囲します。
鄴の周辺は皆前燕に降伏しますが、鄴には大将軍・蔣幹と、皇太子の冉智が籠り、前燕の攻撃に頑強に抵抗します。
しかし、鄴城内は食料不足に陥り、「人相食む」という状況になります。蔣幹は東晋に援軍養成を行うなどの手をうちます。
慕容儁は、鄴攻撃をさらに押し進めるために廣威將軍・慕容軍、殿中將軍・慕輿根、右司馬・皇甫眞などの部隊を投入し、慕容評を助けます。
冉閔処刑さる
前燕の鄴攻撃が続いている352年5月、
冉閔は龍城において処刑されました。
処刑されたあと、なんと前燕国内で大旱魃が起き、蝗の害が起こるという、死んでまで最強の武(もはや魔力)を発揮する冉閔恐るべしです。
慕容儁はあまりに害がひどいので、冉閔を祀り、悼武天王としたと言います。
鄴陥落
さて、鄴は包囲されていましたが、ここで援軍の依頼を受けた東晋側は「玉璽渡したら助けてやるよ」と言いますが、蔣幹はほんとかどうか悩んでいました。
しかしそうこうしている間に、東晋の戴施が鄴城内に決死隊として入り、あっけに取られた蔣幹から玉璽を受け取ることに成功します。
一応、東晋は約束を守り、兵糧を用意し援軍を派遣します。
蔣幹は東晋の援軍と強力して前燕軍を撃退しようと、5千の兵とともに出陣しますが、慕容評に大破されてしまい、4千人が討ち取られ、鄴に逃げ帰ります。
これで万事休すとなり、8月に長水校尉の馬願などが内部から鄴城の門を開き、
ついに鄴は陥落しました。
冉智たちは捕らえられ薊に送られました。
建国から2年、魔の国・冉魏はこれで滅亡しました。
魔王・冉閔打倒後の世界
このシリーズでは、五胡十六国時代最強と謳われた冉閔を後趙の武将時代から、黎明編、地獄への飛翔編、魔王即位編、滅亡編と見てきました。
その生涯は、最強の名に恥じない、凄まじい武功にあふれていました。
しかし、それと同時に胡族20万人虐殺を始めとする、魔王としての殺戮の嵐にも彩られています。
漢人であった冉閔は後趙の石氏を滅ぼし、冉魏という国を建国しますが、それは華北を追われた漢人の救いになるどころかさらなる地獄を演出する魔の国でした。
けっきょく、あっという間に鄴周辺以外の多くのエリアで、様々な勢力が自立・割拠してしまい冉魏という国は崩壊に向かい、東北から侵攻して来た前燕によって敗北、滅ぼされてしまいます。
やはり闇落ちし魔王となってしまった冉閔では、戦乱の時代をさらなる混乱に陥れることはできても、平和を取り戻すことはできなかったようです。(あたりまえだ)
魔の国・冉魏は、前燕という北からの別の魔族によって滅ぼされました。
そして中原は・・・さらなる混乱の時代へ向かいます。
この後も五胡十六国時代は90年近く様々な魔王が割拠する暗黒の時代が続きます。(一瞬、氐族の苻堅様が光の勇者になりかけますがそれも崩壊)
ついでに言えば90年たったあとも、さらにそのあと150年暗黒の戦乱は続きます(南北朝時代)
中華の地に平和の時代が訪れるには、冉閔の時代から240年後の真の光の勇者・隋の楊堅の登場を待たないといけませんでした。(どうもそいつも魔族の血を引いているらしい・・・)
【参考文献】
三崎良章『五胡十六国、中国史上の民族大移動』【新訂版】(東方書店、2012年10月)
川勝義雄『魏晋南北朝(講談社学術文庫)』(講談社、2003年5月)
『晋書』『資治通鑑』
五胡十六国: 中国史上の民族大移動〔新訂版〕(東方選書43)
コメント
闇落ちだの魔族だの、文言に中二病を感じるw
せっかく良いサイト作ってんのに・・・・
面白くないぞ?